歴史と由緒
『蕎麦全書』が伝える由来
1751年(寛延4年)に書かれた蕎麦専門書『蕎麦全書』によると、将軍家からそばについて尋ねられた深大寺の住職が、50年ほど前に、深大寺の本山である上野寛永寺の公弁法親王にそばを献上し、非常に風味が良いと評判になったことが深大寺そばの名が広まった始まりとされています。
米に適さない土地とそばの栽培
江戸時代、深大寺周辺は米の生産に適さない土地だったため、小作人たちは代わりにそばを栽培し、その粉を深大寺に献上していました。寺ではそのそばを打ち、来客をもてなしていたとされます。
徳川家光と深大寺そば
徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に深大寺に立ち寄り、そばを食して賞賛したという逸話も伝わっています。享保の改革の際には、痩せた土地でも育つそばの栽培が推奨され、地域全体でそば作りが進められました。
文人墨客に愛された味
文化人たちの記録と称賛
江戸時代後期の文人・大田南畝は、1809年(文化6年)に深大寺を訪れ、「深大寺そばは近在に名高し」と評しました。1834年から刊行された『江戸名所図会』では、深大寺の住職がそばでもてなす様子が描かれ、「当寺の名産にして味わい尤佳なり」と紹介されています。
さらに、1830年完成の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「当国ノ内イツレノ地ニモ蕎麦ヲ植ヘサルコトナケレド、其品当所ノ産ニ及ブモノナシ」と記され、深大寺そばの卓越した味が絶賛されています。
川柳に詠まれたそば文化
当時の川柳には、「深大寺棒の上手を客に見せ」「深大寺直に打つのがご馳走なり」など、そば打ちの技術が来客をもてなす演出として用いられていた様子が詠まれています。
水と地形が支えたそば作り
国分寺崖線と湧き水
深大寺は国分寺崖線沿いに位置しており、水はけの良い地形と豊富な湧き水がそばの栽培と調理に最適でした。そばの打ちや締めにも良質な水が欠かせず、深大寺の風味を生み出す要因のひとつとされています。
昭和初期と文化人の来訪
昭和初期には、作家の井上靖や松本清張などの文化人が訪れ、深大寺そばを味わいました。当時、営業していたのは幕末創業の元祖嶋田屋のみで、客が来てから石臼でそば粉をひくという丁寧なスタイルでした。
現代の深大寺そばと保存活動
神代植物公園の開園と変化
1961年に神代植物公園が開園されると、農地が譲渡され、深大寺周辺からそば畑は姿を消しました。しかし参拝客や植物園来園者の増加により、そば店の数は増加しました。
現在では、地元で栽培されたそば粉の入手が難しいため、各店舗が全国各地からそばを仕入れて工夫を凝らしています。
そば栽培の復活と地域の連携
こうした状況を危惧した人々により、1987年、神代植物公園内の深大寺城跡でそばの栽培が再開されました。現在では、神代植物公園・深大寺そば組合・深大寺小学校が連携し、共同でそばの栽培管理を行っています。
深大寺そばまつり
毎年秋には「深大寺そばまつり」が開催され、多くの観光客でにぎわいます。伝統の味を楽しみながら、そば文化の奥深さに触れられるこの祭りは、深大寺の風物詩となっています。