村山貯水池は、東京都東大和市の狭山丘陵の渓谷に造られた人造湖であり、一般には「多摩湖」の通称で親しまれています。1927年(昭和2年)に完成し、東京都水道局水源管理事務所村山・山口貯水池管理事務所が管理しています。西の村山上貯水池と東の村山下貯水池に分かれており、東京都内で他県にまたがらない湖の中では最大です。
村山上貯水池は、西側に位置する貯水池です。左岸の所在地は東京都東大和市です。
村山下貯水池は、東側に位置する貯水池です。左岸の所在地は東京都東大和市です。
明治以降、東京市の人口増加と水道改善のため、1898年(明治31年)12月1日に淀橋浄水場が竣工し、1911年(明治44年)3月まで施設能力の増強が行われました。しかし、市民の増加と一人当たりの使用量の増加に対応しきれず、新たな水源の確保が必要となりました。中島鋭治の調査により、西多摩郡大久野村(現:日の出町)と北多摩郡の6村(清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村)(現:東大和市)にまたがる狭山丘陵が候補地として検討され、工費が安い狭山丘陵に建設が決定されました。
1914年(大正3年)3月頃から1919年(大正8年)12月にかけて土地買収が行われました。建設予定地には小さな部落があり、161戸の住民が住んでいました。買収価格は当時の村民の収入からすれば高額だったため反対者は少なかったものの、長期間にわたる一部の反対者には土地収用法が適用されました。
1916年(大正5年)から1927年(昭和2年)まで、約10年の歳月をかけて村山貯水池の建設が行われました。工事には資材運搬と導水管(羽村村山線)の工事のため、羽村から横田までの7.8 km区間に軽便鉄道が敷設されました。この鉄道は1921年(大正10年)に完成し、1924年(大正13年)に廃線となりましたが、その後も資材運搬のために再び利用されました。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけて、太平洋戦争中の爆撃対策として羽村山口軽便鉄道が復活し、貯水池の堤体の嵩上げ工事が行われました。1945年(昭和20年)には米軍により5回の爆撃を受けましたが、堤体はコンクリートによる強化が施されました。
1978年(昭和53年)には日本初の女子フルマラソンが行われ、1982年(昭和57年)には新東京百景に選ばれました。また、2003年(平成15年)から2009年(平成21年)にかけて村山下貯水池の耐震補強工事が行われ、戦時中に設けられた耐弾層の撤去が実施されました。
羽村線出口に設置された幅4.000m、開度3.900mの水門です。
ダム南岸に設置された内径7.879m、高さ27.511mの取水塔で、4つの取水口があり、最下段から順に一号ゲート、二号ゲート、三号ゲート、四号ゲートと呼ばれます。
ダム南岸に設置された内径7.879m、高さ27.061mの取水塔で、7つの取水口(最下段は2個)があり、左から順に一号ゲート、二号ゲート、三号ゲート、四号ゲート、五号ゲート、六号ゲート、七号ゲートと呼ばれます。
ダム南岸に設置された内径7.000m、高さ27.400mの取水塔で、7つの取水口(最下段は2個)があり、左から順に一号ゲート、二号ゲート、三号ゲート、四号ゲート、五号ゲート、六号ゲート、七号ゲートと呼ばれます。
村山貯水池は、現在の東大和市に位置していますが、「村山」という名称は旧地名「村山郷」に由来しています。一方、「多摩湖」という通称は、竣工後に行楽客で賑わうようになった際に、西武鉄道が池袋駅構内でアンケートを取って決めた名称です。この名称は現在、周辺地域の町名(東大和市多摩湖、東村山市多摩湖町)にも採用されています。