玉川上水は、江戸時代に江戸市中への飲料水を供給していた重要な上水道の一つであり、江戸の六上水の一つとして広く知られています。多摩川の水を利用し、江戸市中へと送り届けるために建設されたこの上水道は、現在でも一部区間が現役の水道施設として東京都水道局によって使用されています。
玉川上水は、1653年(承応2年)に江戸時代前期の多摩川の羽村から四谷までの間に築かれました。その全長は42.74キロメートルに及び、高低差は92.3メートルでした。この取水口から四谷までの流路は全て現代の東京都内に位置しており、特に羽村取水堰から四谷四丁目交差点付近にあった四谷大木戸に至るまでの区間が重要な役割を果たしていました。
玉川上水は、羽村取水堰で多摩川から取水した水を武蔵野台地を東へ流し、四谷大木戸に設置された「水番所」(水番屋)を経て江戸市中へ分配する仕組みになっていました。羽村市から四谷大木戸までの約43キロメートルの区間は露天掘りの水路であり、大木戸以降は木樋や石樋を用いた地下水道が使用されていました。武蔵野台地の尾根筋を選んで水路が設置されているため、効率的な水の流れを確保することができました。
玉川上水の建設は、江戸市中での飲料水不足を解消するために幕府が計画したものです。『玉川上水起元』(1803年)によれば、1652年(承応元年)に幕府は多摩川からの上水開削を決定し、老中で川越藩主の松平信綱を総奉行に、伊奈忠治を水道奉行に任命しました。玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)が工事を請け負い、幕府から6000両または7500両の資金が提供されました。
工事は1653年(承応2年)の正月に始まり、同年4月4日に着工されました。しかし、羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったため、引水工事は非常に困難を伴いました。最初に日野からの取水を試みましたが、浸透性の高い関東ローム層に水が吸収され、失敗しました。次に福生を取水口としましたが、同様に失敗し、最終的には羽村での取水が成功しました。
松平信綱の指示の下、川越藩士の安松金右衛門が設計を担当し、羽村から四谷までの水路が完成しました。この工事は困難を極めましたが、1653年11月15日には羽村から四谷大木戸までの区間が完成し、翌1654年6月には江戸市中への通水が開始されました。玉川兄弟はこの功績により「玉川」の姓を与えられ、玉川上水役のお役目を命じられました。
玉川上水の給水地域は『御府内備考』に簡潔かつ詳細に記されています。四谷・麹町から御本城へ、西南は赤坂、西の久保、愛宕下、増上寺付近、さらに北手の金杉、南東方の外桜田、西丸下、大名小路、虎御門外、数寄屋橋外など、広範囲にわたって水が供給されていました。この水は江戸の人々にとって貴重な飲料水源であり、その利用範囲は非常に広大でした。
玉川上水は江戸市中の飲料水供給を担う重要なインフラであったため、厳重な管理が行われていました。水質を守るため、洗い物や水浴び、ゴミの投棄などは厳しく禁止されており、上水沿いの樹木や下草の採取も制限されていました。羽村や代田村(現在の京王線代田橋駅付近)、四谷大木戸には水番所が設けられ、水番人が詰めて水路の管理や清掃を行っていました。
さらに、近代になると「水衛所」が多数設置され、同様の管理が行われましたが、淀橋浄水場の閉鎖とともに多くの水衛所は役割を終えました。現在は小平監視所が水質監視・管理の業務を行っています。
玉川上水沿いにはヤマザクラが多く植えられました。これは、花見客が堤を踏み固めることで堤防の強化を図るとともに、桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたためです。特に「小金井の桜」は江戸時代から第二次世界大戦前にかけて多くの花見客で賑わい、大正13年には国の名勝に指定されました。
現在の玉川上水の流域には、羽村市、福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、武蔵野市、西東京市、三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区といった東京都の自治体が含まれます。これらの地域は、玉川上水によって供給される水を利用し、発展を遂げました。
現在の玉川上水は、その保存状態や利用状況に基づいて、上流部、中流部、下流部の3つの区間に分けられます。
この区間は江戸時代と同様に、多摩川から取水した水がそのまま流れる区間であり、水量も豊富です。羽村取水堰からしばらくは多摩川に沿って流れ、拝島駅付近で向きを変え、小平監視所に至ります。この区間では、東京の上水源として現在も多摩川水系が重要な役割を果たしており、羽村取水堰で取水された水の一部は山口貯水池や村山貯水池へ送水されています。
残りの水は小平監視所で取水され、東村山浄水場や農業用水路として利用されています。