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大名時計博物館

(だいみょう とけい はくぶつかん)

大名時計博物館は、東京都台東区谷中に位置する時計の博物館です。1974年4月に開設され、陶芸家である上口愚朗によって収集された江戸時代の大名時計が展示されています。館内には、櫓時計や台時計、枕時計など、江戸時代の大名お抱えの時計師たちが作った多種多様な時計が並び、これらは美術工芸品としての価値も高く、日本独自の文化遺産として世界に類を見ない存在です。

大名時計博物館の歴史

大名時計博物館は、陶芸家の上口愚朗が生涯にわたって収集した大名時計を展示するために設立されました。上口は1951年(昭和26年)に勝山藩の下谷屋敷跡に「上口和時計保存協会」を設立し、その後、彼の没後には二代目上口等が1974年(昭和49年)に本館を設立しました。ここには、江戸時代の大名お抱えの時計師たちが手作業で製作した貴重な大名時計が多く展示されています。

和時計とは

和時計(わどけい)は、江戸時代から明治初期にかけて日本で製作・使用された時計であり、不定時法を用いるための機構を持つ珍しい時計です。現在の一般的な時計が1日を24等分した定時法に基づくのに対し、和時計は季節によって変化する昼と夜をそれぞれ6等分する不定時法を前提としています。このため、昼の一刻と夜の一刻の長さが季節によって異なります。和時計は「昔時計」「日本時計」「大名時計」とも呼ばれ、その技術や機構、美術的価値においても他に類を見ない日本独自の時計です。

和時計の機構

和時計の時刻表示方法には、「二挺天符」型と「割駒式文字盤」型の2種類があります。「二挺天符」型は、昼と夜の時間の遅速を調整する棒天符の錘りを用いて表示を調整する方式で、江戸時代の改良により「一挺天符」から進化したものです。一方、「割駒式文字盤」型は、文字盤の間隔を調整することで時刻を表示し、季節に応じた昼夜の時間の変化に対応しています。これらの技術的進化により、和時計は江戸時代を通じて改良が重ねられ、1800年代半ばには完成形ともいえる自動割駒式へと進化しました。

和時計の歴史と発展

日本への機械式時計の伝来

日本への機械式時計の伝来は、1543年にポルトガル人による鉄砲伝来と同時期と言われています。1551年には、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが大内義隆に「自鳴鐘」を献上した記録があり、これが文献上で確認できる最古の機械式時計の伝来です。その後、1611年には徳川家康に贈られた洋時計が現存する最古の伝来品とされ、これらの時計はステータスシンボルとしての役割を果たしました。

和時計の発明と日本化

西洋からもたらされた機械式時計を倣製し、日本の風土や習慣に合わせて独自の改良を加えた機械式時計が和時計です。その起源については明らかではありませんが、徳川家康が朝鮮から献上された時計を修復した鍛冶職人の津田助左衛門が、日本最初の時計師とされています。和時計の製作にはさまざまな改良が施され、1600年代には「二挺天符式」、1800年代半ばには「自動割駒式」が発明されるなど、江戸時代を通じて進化を続けました。

和時計の製造と使用

和時計は、高級品として大名や豪商など富裕層に愛用されていました。鉄や真鍮で作られた時計の本体や機構には美しい彫金の装飾が施されており、掛時計や台時計、印籠時計、枕時計などさまざまな種類が存在しました。井原西鶴の『日本永代蔵』にも和時計が描かれているなど、その存在は広く認識されていました。

和時計の終焉

明治5年(1872年)に明治政府が太陽暦と定時法への全面移行を実施したことで、和時計の実用的な役割は終わりました。アメリカからの定時法時計の大量輸入もあり、和時計は次第に姿を消しました。しかし、江戸時代の職人たちは洋式時計の製作へと移行し、日本はその後、時計製造業において世界的な地位を確立することになります。

現在の和時計

現在、和時計は実用的な時計としては使用されていませんが、その精緻な機構や独自の美しさから美術工芸品としての価値が高く評価されています。大名時計博物館をはじめとする各地の博物館で展示され、日本の文化遺産として保存・紹介されています。和時計は、日本の時計文化の歴史を象徴する重要な遺産であり、今なおその魅力を多くの人々に伝えています。

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名称
大名時計博物館
(だいみょう とけい はくぶつかん)

日暮里・北千住

東京都