素盞雄神社は、東京都荒川区南千住に位置する神社で、地元では「千住素盞雄神社」や「南千住素盞雄神社」、さらに「お天王様(おてんのうさま)」とも親しまれています。荒川区南千住、三河島、町屋、および台東区三ノ輪など、計61町を総鎮守する旧郷社であり、その例祭「天王祭」は、東京都内でも珍しい二天棒の神輿による神輿振りが有名です。
延暦14年(795年)4月8日の夜、役小角の弟子である黒珍(こくちん)が「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」という御神託を受けたと伝えられています。その際、牛頭天王と飛鳥権現の二柱の神が降臨した奇岩が祀られ、神社が創建されました。江戸の町民の間では、神社の境内は文人墨客たちの交流の場としても親しまれ、「飛鳥の杜(あすかのもり)」と呼ばれていました。
創建以来、二柱の神は別々の社殿に奉斎されていましたが、享保3年(1718年)に焼失し、享保12年に瑞光殿が建てられて合祀されました。素盞雄神社は古くから疫病除けで知られており、安政5年(1858年)に江戸でコレラが流行した際には、多くの参詣者が疫除守を求めて訪れました。
明治初期の廃仏毀釈により、祭神名は素盞雄大神・飛鳥大神へと改められ、社名も「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろ こつかはらてんのうぐう)」から「素盞雄神社」に改称されました。
祭神が降臨した「神影面瑞光荊石(しんえいめんずいこうけいせき)」は、元治元年(1864年)に浅間信仰に倣い、静岡県富士宮市にある浅間神社の祭神である木花之佐久夜毘売を代わり神として祀り、富士塚としました。境内には、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発した地点として知られ、「奥の細道」には「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑(松尾芭蕉の碑)が境内にあります。
天王祭は6月2日に宵宮祭、3日に例大祭が行われる、夏に流行する疫病を祓う都市型の例祭です。
いずれの祭事も掛け声は「おいさ」、「やー」、「瓜(うり)」などが使用されます。また、三河島地区では一般的な御輿担ぎ手の掛け声も見られます。
飛鳥祭は9月15日に湯立神事が行われます。
当社御創建の起源となった「神影面瑞光荊石(しんえいめんずいこうけいせき)」のある小高い塚に、元治元年(1864年)、富士塚を築き浅間神社を祀りました。
東京都荒川区南千住6-60-1
南千住駅より徒歩7分でアクセスできます。
泪橋(なみだばし)は、東京都にかつて存在した橋の名称で、荒川区と品川区に一ヶ所ずつありました。それぞれが近隣の刑場と深い関連があります。
荒川区南千住にある小塚原刑場跡の近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋です。現在では思川は全て暗渠化され、橋の面影はなく、その名前は交差点やバス停留所に残っています。
品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの立会川にかかっていた旧東海道の橋で、現在の名称は「浜川橋」に変更されています。ただし、品川区教育委員会の案内板では「泪橋」ではなく「涙橋」とされています。
江戸時代、小塚原と鈴ヶ森は処刑場として知られ、磔刑、火焙り、獄門が行われた場所でした。罪人は処刑場に向かう際、泪橋を渡り、家族や身内との今生の別れの場でもあったことから、この橋が「泪橋」と呼ばれるようになったと言われています。こうして、名残の情景や悲哀がこめられた場所として記憶されることになりました。