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小塚原刑場

(こづかはら けいじょう)

小塚原刑場は、かつて東京都荒川区に存在した刑場です。江戸時代から明治初期にかけて、この場所で多くの処刑が行われました。小塚原の地名は「古塚原」や「骨ヶ原(こつがはら)」とも呼ばれています。

地理的背景と設立

この刑場は、慶安4年(1651年)に千住大橋南側の小塚原町(現在の東京都荒川区南千住2丁目)に設立されました。当初は「小塚原町」として知られていましたが、万治3年(1660年)に千住宿に加えられました。江戸時代には、江戸の北に位置する小塚原刑場と、南に位置する東海道沿いの鈴ヶ森刑場(現在の東京都品川区南大井)が江戸の二大刑場として知られていました。

刑場の規模と処刑の種類

小塚原刑場の広さは、間口60間(約108メートル)、奥行30間余(約54メートル)ありました。ここでは磔刑、火刑、梟首(獄門)などの刑罰が執行され、特に腑分け(解剖)が行われる場所としても知られていました。この腑分けが行われたのは、小伝馬町牢屋敷(日本橋小伝馬町)と小塚原刑場の2箇所のみでした。

処刑場の環境と惨状

処刑された死体はそのまま野ざらしにされることが多く、埋葬が行われる場合も土を軽く被せる程度でした。そのため、夏場になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチなどが死体を食い散らかすという地獄のような光景が広がっていました。また、この刑場は、山田浅右衛門による「試し斬り」(刀剣の試し斬り)の場所としても利用されていました。

死者の埋葬と供養

寛文7年(1667年)、本所回向院の住職であった弟誉義観(ていよぎかん)が、処刑された死者の埋葬と供養のため、小塚原刑場に隣接して常行堂を創建しました。これが後に南千住回向院となりました。また、文政5年(1822年)には、南部藩の臣・相馬大作(下斗米秀之進)が処刑され、以降国事犯の刑死者がここに埋葬されるようになりました。安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らも一時ここに埋葬されました。

「解体新書」と小塚原刑場

明和8年(1771年)、蘭学者の杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らは、『ターヘル・アナトミア』を元に解剖図の正確さを確認するため、小塚原刑場で刑死者の解剖(腑分け)を行いました。この出来事を記念して、1922年(大正11年)には、回向院に観臓記念碑が寄贈されました。

小塚原刑場の廃止と跡地

明治6年(1873年)7月、新政府は欧米との人権基準に対応するため、小塚原刑場を廃止しました。その後、常磐線の建設に伴い、刑場跡地は南千住駅西側に位置する延命寺内に収まりました。この際、鉄道工事のたびに人骨が発掘され、1960年には日比谷線の工事中に大量の人骨が発見されました。

文化財としての小塚原刑場跡

現在、小塚原刑場跡は荒川区により文化財として登録されています。例えば、景岳橋本君碑、吉田松陰の墓、橋本左内の墓、頼三樹三郎の墓、小塚原の刑場跡、観臓記念碑、回向院文書、小塚原の首切地蔵などがその例です。これらは南千住二丁目34番5号の延命寺内にあり、南千住駅から徒歩5分の場所に位置しています。

刑場跡の発掘とその影響

1998年10月30日には、つくばエクスプレスの建設工事中に、直径75cmの筒状の木枠から104人分の頭蓋骨が掘り出されました。その後、2001年から2002年にかけての調査では、頭蓋骨252体分、四肢骨約1700点が発掘されました。これらの人骨は棺などの容器に入れられず、そのまま土に埋められていたことが判明しています。

荒川ふるさと文化館と小塚原刑場の資料

小塚原刑場に関する資料は、現在荒川ふるさと文化館で不定期に公開されています。首切り刀などの貴重な資料も展示されることがあります。小塚原刑場跡地を訪れる際には、こうした資料を通じて、当時の歴史や刑場の実態を学ぶことができます。

小塚原刑場の文化的意義

小塚原刑場は、江戸時代の司法制度や処刑の実態を知る上で重要な場所です。現在、刑場跡地は文化財として保存され、多くの人々が歴史の教訓を学ぶ場となっています。訪れる際には、当時の悲惨な歴史を胸に刻み、命の尊さを再認識することが求められます。

アクセス

延命寺(首切り地蔵):南千住2-34-5
南千住駅(JR常磐線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレス)徒歩5分

Information

名称
小塚原刑場
(こづかはら けいじょう)

日暮里・北千住

東京都