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護国山 天王寺

(ごこくざん てんのうじ)

天王寺は、東京都台東区谷中に位置する天台宗の寺院で、正式名称は護国山尊重院 天王寺です。

開創から日蓮宗時代

天王寺の歴史は、日蓮が鎌倉と安房を往復する際、関小次郎長耀の屋敷に宿泊したことに始まります。関小次郎は日蓮に帰依し、草庵を結びました。その後、日蓮の弟子である日源が法華曼荼羅を勧請し、開山しました。

1641年(寛永18年)、天王寺は徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、将軍家の祈祷所として29690坪の土地を拝領しました。また、1648年(慶安1年)には日蓮宗9世の日長により『長耀山感応寺尊重院縁起』が著されましたが、法華寺から転住した日耀が中興するまでの歴史は不明です。

弾圧と改宗

開創時から日蓮宗の寺院であり、不受不施派に属していた天王寺は、江戸幕府による弾圧を受けました。1698年(元禄11年)、日蓮宗15世・日遼の時に強制的に天台宗へ改宗させられ、日蓮宗14世・日饒と日蓮宗15世・日遼は八丈島に流刑となりました。

輪王寺宮公弁法親王の働きかけにより、天王寺の存続が認められ、天台宗1世として慶運大僧正を迎え、本尊を毘沙門天像に変更しました。この慶運大僧正は後に善光寺を中興しました。改宗後、祖師像は瑞輪寺に移されました。

寺号改称と日蓮宗への復帰の試み

1833年(天保4年)、法華経寺の知泉院の日啓や大奥女中であった専行院らによる活動で、感応寺を再び日蓮宗の寺院とする動きが起きましたが、輪王寺宮舜仁法親王の介入により日蓮宗への復帰は中止されました。結果、寺号は「長耀山感応寺」から「護国山天王寺」へと改称されました。

江戸の三富と富くじ

1700年(元禄13年)、天王寺では江戸幕府公認の富突(富くじ)が始まりました。目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として広く知られ、多くの参拝者で賑わいました。富突は1842年(天保13年)に幕府の禁令が出されるまで続きましたが、その後も興行は許可されました。

天王寺の年表

以下に天王寺の歴史を示します。

文化財

天王寺には以下の文化財があります:

天王寺の風景と建築

天王寺は、緑豊かな谷中墓地の一角にあり、都心に位置しながらも静寂な環境に恵まれています。桜並木の参道を進み、山門をくぐると、奈良の十輪院を模した古風な本堂が出迎えます。また、平成10年に落慶した上善堂(講堂)や客殿など、昔ながらの寺院建築と近代建築が調和しています。

天王寺の起源と日蓮宗との関係

天王寺はもともと日蓮宗の寺院で、鎌倉時代後期に土豪・関長耀が日蓮聖人に帰依し、草庵を作ったことに由来します。その後、日蓮の弟子である日源がここに聖人自刻の像を祀り、長耀山感応寺と名付けられました。室町時代には、目黒碑文谷の法華寺(現在の天台宗円融寺)から日耀が転住し、中興しましたが、元禄11年(1698年)には幕府の命令で天台宗に改宗され、日蓮宗の関係品は瑞輪寺などに移管されました。

幕府との関係

天王寺は、幕府からも度々寄進を受け、信仰を集めましたが、幕府による日蓮宗の不受不施派への圧迫が強まり、改宗させられたという歴史があります。

おわりに

天王寺は、江戸時代には「江戸の三富」の一つとして知られ、富突興行が大いに賑わいを見せましたが、1868年(慶応4年)の彰義隊の兵火により一部の建物を焼失しました。それでも、天台宗に改宗された後も、信仰の場としての役割を果たし続けています。

天王寺は、現在も谷中の風景に溶け込むように静かに佇み、多くの参拝者を迎え入れています。その歴史的背景を知ることで、訪れる際にはより一層の感慨深さを感じることでしょう。

Information

名称
護国山 天王寺
(ごこくざん てんのうじ)

日暮里・北千住

東京都