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柴又帝釈天

(しばまた たいしゃくてん)

柴又帝釈天または、帝釈天 題経寺(たいしゃくてん だいきょうじ)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院です。正式には経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)と称され、旧本山は大本山中山法華経寺(なかやま ほけきょうじ)で、親師法縁を結んでいます。

概要

「帝釈天」とは本来、仏教の守護神である天部の一つを指しますが、地元では題経寺の略称として用いられることが多いです。柴又帝釈天は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠と題経院日栄という2名の僧によって開創されました。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から、帝釈天が信仰を集め、「柴又帝釈天」として知られるようになりました。

歴史

創建と発展

題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)の19世住職であった禅那院日忠とされています。ただし、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子である題経院日栄であるとされています。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)には、日栄の木像が安置されており、この僧が実質的な開山であると考えられます。

題経寺の中興の祖とされているのは、9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)です。彼は「帝釈天の板本尊」を再発見した人物として知られています。日敬が記した縁起によれば、この寺には日蓮宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊がありましたが、長らく所在不明となっていました。しかし、本堂の修理の際に棟木の上から発見されたということです。

信仰と観光地としての発展

板本尊が安永8年(1779年)の庚申の日に発見されたことから、庚申の日が縁日となり、多くの参詣者を集めるようになりました。その後、日敬は江戸の町を巡り、天明の大飢饉に苦しむ人々に板本尊を拝ませ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰がさらに広がりました。柴又帝釈天が著名となり、門前町が形成されたのもこの時代からとされています。

建築物と仏像

二天門

二天門は明治29年(1896年)に建立されました。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風が付されています。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天が安置されており、門の名はこれに由来しています。これらの二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されました。

帝釈堂

帝釈堂は二天門を入った境内正面に位置し、手前の拝殿と奥の内殿から成ります。内殿には帝釈天の板本尊が安置され、左右には四天王の持国天と多聞天(毘沙門天)が配されています。堂内外には精巧な装飾彫刻が施され、彫刻ギャラリーとして一般公開されています。

彫刻ギャラリー

帝釈堂内殿の外部には、東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、特に胴羽目板に浮き彫りされた法華経説話の10面が有名です。これらは、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて10人の彫刻師が制作したもので、「彫刻ギャラリー」として保存されています。

祖師堂(本堂)と釈迦堂(開山堂)

祖師堂(本堂)は、日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅です。また、釈迦堂(開山堂)は江戸時代末期に建立された寺内最古の建築で、釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置しています。

大客殿と邃渓園(すいけいえん)

大客殿は昭和4年(1929年)に完成し、東京都の選定歴史的建造物です。その前には池泉式庭園の邃渓園が広がり、庭園の設計は向島の庭師永井楽山によるものです。庭園への立ち入りは禁止されていますが、周囲の廊下から観賞することができます。

アクセス情報

京成金町線柴又駅から徒歩4分の距離にあり、京成バスや北総鉄道北総線の利用も便利です。近くには矢切の渡しの船着場もあり、風情あるアクセスが楽しめます。

Information

名称
柴又帝釈天
(しばまた たいしゃくてん)

葛飾区

東京都