かつての名称と役割
骨董通りは、かつて「高樹町通り」や「南町通り」と呼ばれ、都電が走る電車通りとして機能していました。現在でも「アンティーク通り」として知られることもありますが、かつては渋谷と六本木を結ぶ主要路として利用されていました。特に、青山トンネルが開通する以前は、六本木通りと青山通りを繋ぐバス通りとしても重要な役割を担っていました。
都市計画と整備状況
骨董通りは、都市計画道路補助第23号線に指定されており、青山通りと六本木通りを結ぶ重要な路線となっています。平成28年に発表された「東京における都市計画道路の整備方針」では、南青山五丁目交差点から南青山六丁目交差点までの区間が優先整備路線に指定されています。この整備計画では、車道の混雑緩和や自転車・歩行者の安全性向上が目指されています。
骨董通りの歴史
戦前から戦後にかけての発展
骨董通りは、太平洋戦争前後から発展を遂げ、1941年に開設された根津美術館や1975年に竣工された小原流会館をはじめ、数々の骨董品店が沿道に集まるようになりました。「骨董通り」という名称は、これらの歴史的背景に由来し、1980年代頃から自然発生的に使われるようになったと言われています。また、一説には古美術鑑定家・中島誠之助氏がこの名称を広めたとも言われています。
沿道の主な施設
現在の施設
骨董通りには、歴史的建造物や現代的な施設が混在しており、その魅力を増しています。代表的な施設としては、1969年に竣工された富士フイルム旧本社ビルや根津美術館、小原流会館、ニッカウヰスキー本社などがあります。また、リノベる本社やコシノジュンコデザインオフィス、ブルーノート東京などもこの通りに位置しています。
かつて存在した施設・店舗
かつて骨董通りには、エヴァンス青山店やブルーノート東京などの有名な店舗がありました。エヴァンス青山店はロレックス専門店として知られ、2013年に銀座へ移転するまではこの通りで営業していました。また、ブルーノート東京は1998年11月に現在の南青山六丁目へ移転する前は、骨董通りで多くの音楽ファンに親しまれていました。
他の骨董通り
「骨董通り」という名称は、港区南青山に限らず、他の地域でも使われています。例えば、東京都中央区の日本橋京橋界隈にも「骨董通り」と呼ばれる通りがあります。このように、骨董品店が集まる場所は、しばしば「骨董通り」と称され、地域の特徴を反映しています。