増上寺の創建と歴史
増上寺の前身は9世紀に空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(現在の東京都千代田区麹町)に建立した光明寺です。室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖である酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)によって真言宗から浄土宗に改宗され、寺号も増上寺と改められました。この聖聡が実質的な増上寺の開山とされています。
聖聡は応永3年(1396年)、小石川(現在の文京区)に草庵を立て、師である了誉聖冏を招きました。この草庵が後に伝通院として発展しました。増上寺の歴史において、松平氏や徳川氏との深い関係が見られます。松平氏の家臣である信光明寺や大恩寺の開山が増上寺の影響を受け、また、徳川家康の菩提寺としての歴史も重要な一部です。
徳川家と増上寺の関係
徳川家康が江戸に入府した際、たまたま増上寺の前を通りかかり、12世源誉存応と対面したことがきっかけで、増上寺は徳川家の菩提寺となりました。増上寺はその後、貝塚から一時日比谷へ、そして慶長3年(1598年)に現在の芝へと移転されました。これは風水的にも重要で、寛永寺が江戸の鬼門である上野に配置され、裏鬼門を抑えるために増上寺が芝に移されたと考えられます。
増上寺は、徳川家の菩提寺としてだけでなく、学問所や僧侶の養成所としての機能も果たしていました。その中で、関東十八檀林の筆頭となり、学問の中心地としての役割を果たしてきました。
明治維新と増上寺の変遷
明治維新後、神仏分離令の影響を受け、増上寺の規模は大きく縮小しました。また、境内の広範囲が芝公園となり、寺院としての機能が制限されました。その後、大東亜戦争(第二次世界大戦)中の空襲によって、徳川家霊廟や五重塔などの重要な遺構が失われました。
戦後、増上寺は再建され、現在では多くの観光客や参拝者が訪れる場所となっています。特に、2021年11月にはチタン瓦葺きの大殿(本堂)が再度落慶し、壮大な伽藍が復興されました。
増上寺の重要文化財と見どころ
三解脱門(さんげだつもん)
増上寺の三解脱門(さんげだつもん)は、戦災を免れた数少ない建物の一つであり、元和8年(1622年)に建立された二重門です。この門をくぐると、三毒(貪・瞋・癡)から解脱できるとされています。内部には釈迦如来像や阿弥陀如来像が安置されており、その荘厳な佇まいは訪れる者を圧倒します。
徳川家霊廟と大殿
増上寺には、徳川家の歴代将軍が祀られている霊廟があります。特に、第2代将軍・徳川秀忠とその正室・お江の方の霊廟が有名で、これらの霊廟は歴史的価値が高いとされています。また、2021年に再建された大殿(本堂)は、その壮麗さから多くの参拝者が訪れる人気のスポットです。
現代における増上寺
東京タワーとの関係
増上寺は東京タワーの建設時に、墓地の一部を土地として提供しました。これにより、東京タワーの周辺地域が整備され、現在の芝公園エリアが形成されました。増上寺の旧総門である「大門」は、現在でも芝大門や大門駅の名称にその名を残しています。
現代の行事と公開
2022年7月11日には、奈良県で暗殺された第90・96-98代内閣総理大臣安倍晋三の告別式が増上寺で執り行われました。また、同年10月には、解脱門の楼上が初めて夜間公開され、訪れた人々に大きな感動を与えました。
増上寺は、古くからの歴史と現代の文化が交錯する場所として、これからも多くの人々に愛され続けることでしょう。