普済寺は東京都立川市柴崎町にある臨済宗建長寺派の寺院で、山号は玄武山と称します。本尊は聖観音菩薩であり、創建以来、立川地域において重要な役割を果たしてきました。南北朝時代の文和年間(1352年~1356年)に地頭であった立河宗恒が開基し、物外可什を開山として建てられました。
普済寺は、立河氏の一族が居住していた場所に建てられたとされており、当初は現在の場所ではなく別の場所にありました。立河氏が衰退した後に、現在の位置に移されたと伝えられています。また、1363年から1400年の間、この寺で「五部大乗経」が刊行されていたことでも知られています。江戸時代には、江戸幕府から朱印状を与えられるなど、幕府の庇護を受けました。
普済寺の境内には、国宝に指定されている「六面石幢」があります。この石幢は、1361年に造立された緑泥片岩製のもので、高さは204.5センチメートルに達します。六角形の基台石の上に六枚の板石を組み合わせ、四天王像と金剛力士像が薄肉彫りされています。四天王像には、持国天、増長天、広目天、多聞天が含まれ、また、金剛力士(仁王)像も彫られています。石幢の右脇には「延文六年辛丑七月六日施財性了立道円刻」との銘があり、これにより1361年の造立とされています。
この石幢は、日本の考古資料部門で最も制作年代の新しい国宝の一つです。立川市歴史民俗資料館には、この石幢の原寸大のレプリカも展示されています。しかし、2020年9月から2024年3月までの保存修理のため、公開は一時的に中止されています。
普済寺には、かつて重要文化財に指定されていた木造の物外禅師坐像がありました。この像は1370年(応安3年)に制作されたもので、開山である物外可什禅師を模したものです。しかし、1995年4月4日に発生した火災により、この坐像は本堂とともに焼失してしまいました。これにより、重要な歴史的文化財を失ったことは大きな打撃でした。
普済寺は、立川氏の庇護のもとで、多くの僧侶が修行する荘厳な道場として栄えました。さらに、1360年代には「普濟寺版大乗経典」を刊行し、地域の仏教や文化の中心的な役割を果たしていました。しかし、応永の末期から永享年間にかけて、立川氏が没落するとともに、普済寺も一時的に衰退の憂き目に遭いました。
その後、16世紀初頭の永正年間に入り、立川一帯は高幡(日野市)を拠点とする平重能の支配下に置かれ、普済寺も再び復興の兆しを見せました。その後、約一万坪に及ぶ広大な境内に七堂伽藍や六院の塔頭が整備され、壮大な景観を呈していました。しかし、1590年に豊臣軍の攻撃を受け、主家である北条氏とともに立川氏が敗北した際、普済寺も兵火により大半の堂宇が焼失してしまいました。
1591年、徳川家康から20石の地が寄進され、普済寺は再び命脈を保つことができました。その後、万治年間(1660年頃)には堂宇の再建が始まり、1691年までに方丈、仏殿、庫裡、鐘楼などが復興されました。江戸時代の普済寺は、『江戸名所図会』に描かれたように、壮麗な姿を取り戻していました。
明治時代に入ると、普済寺の境内には皇族の別邸が設けられ、昭和天皇をはじめとする皇室の方々が訪れるなど、皇室との深い関わりがありました。特に、昭和45年に楼門が完成した際には、三笠宮崇仁殿下と妃殿下がご来臨し、寺の重要性が再び注目されました。
平成7年4月、心無い放火により普済寺は本堂、庫裡、客殿、書院などの主要な建物を失いました。また、開山物外可什禅師坐像や本尊の聖観世音菩薩像など、多くの重要文化財も焼失してしまいました。この火災を機に、「普濟寺再建委員会」が発足し、再建事業が本格的に始まりました。50回にわたる会議を経て、今日では新しい本堂の建築が完成し、普済寺はその歴史的な姿を取り戻しました。
普済寺は、多摩地域に18の末寺を有する臨済宗建長寺派の名刹であり、地域の仏教や文化、教育の中心地としての役割を果たしてきました。境内には、国宝である六面石幢をはじめ、多くの文化財が今も保存されています。歴史的な建造物や遺産がありながらも、現在も信仰の場として地域の人々に愛され続けています。
普済寺の長い歴史は、戦乱や火災による度重なる困難に直面してきましたが、その都度復興し、地域の文化や信仰を守り続けてきました。これからも、多くの人々にとって重要な歴史的遺産として、そして仏教の教えを伝える場所としてその役割を果たしていくことでしょう。