東京都三鷹市に位置する「三鷹市山本有三記念館」は、昭和初期に三鷹で生活した作家・山本有三の生涯や作品を紹介するための公立博物館です。この記念館は、山本有三が1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで家族と共に住んでいた大正末期の洋館をそのまま利用しており、三鷹市の有形文化財に指定されています。
三鷹市山本有三記念館の建物は、大正末期に竣工した洋館で、1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで、山本有三とその家族が居住していた場所です。この洋館は、三鷹市有形文化財に指定され、今もその歴史的価値を保ちながら活用されています。
1923年(大正12年)の関東大震災以降、東京郊外への住宅移転が進む中、山本有三が選んだこの地は、静かな環境を求めての選択でした。彼は、当時吉祥寺に住んでいましたが、家が手狭になり、さらに静かな執筆環境を求めて三鷹村(現・三鷹市)下連雀にあった旧宅を購入しました。彼はこの家で『路傍の石』や『米百俵』といった著名な作品を執筆しました。
第二次世界大戦中、この家は5回に渡る空襲を免れましたが、1946年(昭和21年)に進駐軍に接収され、山本一家は転居を余儀なくされました。1951年(昭和26年)に接収が解除されるまでの間、この家は米軍高級将校の住宅として使用されました。接収解除後、国立国語研究所三鷹分室として一時的に使用された後、1956年(昭和31年)に山本有三が東京都に敷地と建物を寄贈しました。その後、1958年(昭和33年)からは東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」として長期間にわたり使用されました。
1985年(昭和60年)、この建物は三鷹市に移管され、1996年(平成8年)に「三鷹市山本有三記念館」として一般公開されるようになりました。大正末期に建造されてから90年以上が経過し、建物の老朽化が進んでいたため、2017年から2018年にかけて三鷹市による改修工事が行われました。改修工事にかかる費用の一部はクラウドファンディングで賄われ、2018年4月1日にリニューアルオープンしました。
この洋館は、フランスの建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受けた意匠が取り入れられ、当時の様々な建築様式が融合されています。特に注目すべきは、個性的なデザインが施された3つの暖炉や、自然風に積み上げられた大谷石の煙突です。1994年(平成6年)には、希少な建築物として三鷹市有形文化財に指定されました。
建物の内部は、山本有三が居住していた当時の間取りがそのまま保存されており、現在は常設展示と企画展示に利用されています。特に、2階には山本が書斎として使用していた和室が、数奇屋風の和室として復元されており、訪れる人々に歴史的な雰囲気を伝えています。
また、建物の南側には「有三記念公園」が広がり、四季折々の緑と花が楽しめる場所となっています。園内には、山本有三が路傍で見つけた石が置かれており、これがこの記念館の象徴とも言える存在です。
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、そして政治家でもありました。本名は山本 勇造(やまもと ゆうぞう)で、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者として広く知られています。
山本は人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などの作品を発表しました。後に小説に転じ、『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』など、多くの人々に愛される作品を世に送り出しました。彼の作風は、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけるもので、広く読まれました。
第二次世界大戦後、山本は貴族院勅選議員として活動し、後に参議院議員となって新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力しました。彼の生涯と業績は、日本の文学史において欠かせない存在であり、その影響は今もなお続いています。
開館状況:
休館日: 月曜日、年末年始(12月29日 - 1月4日)
開館時間: 午前9時30分 - 午後5時
入館料: 300円(20名以上の団体は200円)
中学生以下、障害者手帳をお持ちの方とその介護者、校外学習の高校生以下と引率教諭は無料です。
写真撮影: 内外とも可能ですが、フラッシュ撮影と動画撮影は禁止されています。
鉄道:
JR中央線「三鷹駅」南口より徒歩12分、または「吉祥寺駅」南口(公園口)より徒歩20分。
京王井の頭線「吉祥寺駅」南口(公園口)より徒歩20分。
バス:
小田急バス、京王バス「万助橋」停留所より徒歩5分。