日本民藝館は、東京都目黒区駒場四丁目に位置する美術館です。この美術館は、民藝品の蒐集や保管、民藝に関する調査研究、民藝思想の普及、展覧会の開催を主な活動としています。日本の伝統工芸品や無名の職人たちの作品を紹介するために設立され、今日に至るまでその活動を続けています。
日本民藝館は、1936年に宗教哲学者であり、美術研究家でもあった柳宗悦(やなぎむねよし)によって創設されました。柳宗悦は、民藝運動の主唱者であり、日本各地の無名の工人による工芸品を蒐集し、その美を世に広めることに尽力しました。現在、日本民藝館は公益財団法人として運営されており、館内には日本民藝協会が設置されています。
柳宗悦は、日本各地の焼き物や染織、漆器、木竹工などの日用雑器や、朝鮮王朝時代の美術工芸品、そして仏像などを蒐集しました。これらの作品は、従来の美術史において正当に評価されていなかったものの、柳はその中に民衆的な美を見出し、民藝運動を始めました。彼の活動は、日本における「ファインアート」ではない工芸品に対する新たな視点を提示し、多くの人々に影響を与えました。
柳宗悦は、朝鮮陶磁研究家の浅川伯教との出会いをきっかけに、朝鮮美術に関心を持つようになりました。特に朝鮮王朝時代の白磁に魅了された柳は、何度も朝鮮半島を訪れ、朝鮮文化の美を日本に紹介することに努めました。1921年には東京で「朝鮮民族美術展」を開催し、その後、ソウルの景福宮内に「朝鮮民族美術館」を開設しました。この美術館は、朝鮮美術の素朴な美を紹介する重要な施設として位置づけられました。
1923年の関東大震災を契機に、柳宗悦は京都に移住しました。彼は陶芸家の濱田庄司や河井寛次郎との交流を通じて、民間で使用される日常品に対する関心を深めました。そして、1925年に「民藝」という言葉を創り出し、1926年には「日本民藝美術館設立趣意書」を発表しました。このときから、民藝品を収蔵し展示する美術館の設立計画が始まりました。
柳は、自らが蒐集した工芸品を広く一般に公開したいと考えましたが、当初は帝室博物館への寄贈が拒否されたため、自ら美術館を設立する決意を固めました。その後、スウェーデンの博物館に影響を受け、1931年には浜松市に「日本民藝美術館」を開館しました。その後、1936年に東京・駒場に現在の日本民藝館を開設しました。
1935年、柳宗悦は東京に再び居を移し、実業家の大原孫三郎からの経済的援助を受けて、1936年10月に日本民藝館を開設しました。初代館長は柳宗悦自身で、開館時の展示は「現代作家工藝品展覧会」として、濱田庄司や河井寛次郎などの作品が展示されました。
戦時中の1945年3月、日本民藝館は臨時閉鎖され、所蔵品の一部は疎開されました。戦後、1946年に占領軍のGHQが館の一部を接収する事態が発生しましたが、関係者の尽力により、接収は解除されました。戦後も日本民藝館は再開し、皇族なども訪れる施設として活動を続けました。
1961年、柳宗悦が死去し、濱田庄司が2代目館長を引き継ぎました。その後、1970年には大阪万国博覧会に「大阪日本民芸館」が開館し、1977年には柳宗理が3代目館長に就任しました。1980年には日本民藝館設立50周年を記念して『柳宗悦全集』が刊行され、1982年には新館が竣工しました。
1999年には日本民藝館本館とその付属施設が国の登録有形文化財に指定されました。2002年から2006年にかけて大改修が行われ、館の設備が一新されました。2012年には深澤直人が5代目館長に就任し、現在も日本民藝館はその活動を続けています。
日本民藝館は、東京大学駒場キャンパスや日本近代文学館などが位置する文教地区にあります。本館は木造2階建ての蔵造り風の建築で、1階部分は大谷石を貼り、2階部分は白壁で仕上げられています。1983年には鉄筋コンクリート造の新館が竣工し、本館と新館は内部で連絡して一体的な空間を形成しています。
館内は純和風のインテリアが施され、展示品の名称は手書きの板で表示されています。展示室は1階と2階にそれぞれ設けられており、観覧者は入口で靴をスリッパに履き替えて入館します。特別展示室では、年に数回の企画展示が行われています。柳宗悦の理念に基づき、解説的な文章はほとんどなく、無心に作品と向き合う空間が提供されています。
初代館長は柳宗悦が務め、その後、濱田庄司、柳宗理、深澤直人が館長を務めました。彼らの指導のもと、日本民藝館は伝統的な工芸品の美を広めるための重要な拠点としての役割を果たし続けています。
日本民藝館は、第二次世界大戦以前に開館した日本でも数少ない美術館の一つです。多くの美術コレクターが茶道具などを収集する中、創設者である柳宗悦の収集品は実用品や日常雑器が中心で、美術界ではあまり注目されませんでした。柳は、品物の伝来や由緒にはこだわらず、自身の直感で「美しい」と感じたものを収集しました。
柳宗悦は「民藝」を「民衆的な工芸品」と定義し、日本民藝館では工芸品を中心に収集を行っています。柳にとって、民芸品の収集は「美しいもの」を求める行為そのものであり、文化人類学的な調査や研究を目的としたものではありません。彼が目指したのは「生活の中の美」であり、その基準に基づいて収蔵品が選定されています。
収蔵品は、絵画、陶磁器、漆器、染織品など多岐にわたり、特に柳宗悦が集めた朝鮮半島の白磁や染付陶磁器、沖縄の染織品、東北地方の刺子衣装や「かづき」、さらにはイギリスのスリップウェアなどが含まれます。また、濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチといった同人作家の作品も多く収蔵されています。
日本民藝館の収蔵品は約17,000点に上り、その質と量は国内外で高く評価されています。特に、朝鮮時代の陶磁器や絵画、丹波焼や唐津焼、瀬戸焼といった日本の古陶磁器は、収集品の中でも際立った存在です。
日本民藝館には、「民画」の一種である大津絵のコレクションが豊富にあります。初代館長である柳宗悦が集めた約40点の大津絵に加え、米浪庄弌の寄贈による100点余りが収蔵されています。柳は1929年に『初期大津絵』という書籍を出版しており、自身が特に愛した作品には「宗悦清玩」の文字が入っていることもあります。
大津絵コレクションの中には、「鬼の行水」などの名品も含まれており、これらは日本民藝館の代表的な収蔵品として知られています。元々は大原孫三郎のコレクションに加えられたもので、彼の没後に日本民藝館へ寄贈されました。
日本民藝館では、バーナード・リーチ、河井寬次郎、濱田庄司、芹沢銈介、棟方志功といった民藝運動に参加した著名な工芸作家の作品も収蔵しています。これらの作家は、柳宗悦の理念に共感し、共に活動していました。
日本民藝館の本館は、1936年に竣工した旧館と、新館から構成されています。旧館は、柳宗悦が中心となって設計したもので、和風意匠を基調としながらも洋風の要素も取り入れた建築となっています。この旧館は、2021年に東京都指定有形文化財(建造物)に指定されました。1982年には、旧大広間のあった位置に新館が建設されました。
西館は、日本民藝館の道路を挟んだ向かい側に位置し、柳宗悦が生活の拠点としていた建物です。1935年に完成し、母屋は柳が設計しました。ここには栃木県から移築した石屋根の長屋門があり、母屋と一体となって独特の趣を醸し出しています。2021年に西館も東京都指定有形文化財に指定されています。
日本民藝館は、柳宗悦の理念に基づき、生活の中で用いられる「美しいもの」を収集してきました。そのコレクションは、日本のみならず、朝鮮半島やイギリスなど、広範な地域から集められており、工芸品を通して日常の美を感じさせるものです。施設自体も歴史的価値が高く、東京都指定有形文化財に指定されている点も大きな魅力の一つです。