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実相山 正覚寺

(じっそうざん しょうがくじ)

正覚寺は、東京都目黒区中目黒に位置する日蓮宗の寺院で、山号は実相山です。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉が江戸城で帰依していた日蓮聖人像を安置しています。また、仙台藩伊達家第4代藩主綱村の生母である三沢初子の寄進により繁栄しました。三沢初子持仏の鬼子母神像も安置されています。

歴史

正覚寺は元和5年(1619年)、法泉院日栄によって開山され、三沢初子(仙台藩主伊達綱村の生母であり、伊達騒動を扱った「千代萩」の政岡のモデルとされる人物)が開基となり創建されました。元禄11年(1698年)には、不受不施派禁圧の影響を受け、元の本山であった碑文谷法華寺(現在の円融寺)が天台宗に改宗されたため、本山を身延山久遠寺へ改めました。

また、寺院内には村井検校(扇一)や、旗本の丹羽氏と推定される人物の墓所もあります。

仙台伊達家との関係

三沢初子は、住持の日猷と日登に帰依し、自身の邸宅を寄進して諸堂を建立しました。初子の墓は東京都指定文化財で、1934年(昭和9年)には初子の銅像も建立されました。正覚寺の祈祷本尊として祀られている鬼子母神像は、初子が子の無事を祈念して安置した伝教大師作の開運子安鬼子母神です。

鬼子母は元々、人間の子を食べる鬼として恐れられていましたが、お釈迦様の説法を受けて善神となり、人の子を守る存在に変わりました。この由来から、種が多く子孫繁栄の象徴とされるザクロが鬼子母神の好物とされ、境内に植えられているほか、寺紋としても大切にされています。

三沢初子の生涯

家系

三沢初子(みざわ はつこ、1640年 - 1686年)は、仙台藩第3代藩主伊達綱宗の側室で、三沢氏の出身です。三沢氏は信濃源氏の後裔で、信濃国伊那郡飯島郷の地頭の一族でした。尼子氏と対抗や同盟を繰り返しながら成長し、毛利氏にも仕えましたが、祖父の為基は毛利氏を出奔しました。

初子の人生

初子は1640年に三沢清長の娘として生まれ、13歳の時に両親と死別し、叔母に養われました。叔母が振姫の老女となった縁で初子も振姫の侍女となり、その後、容姿端麗かつ聡明であったため伊達綱宗の側室となりました。綱宗は正室を迎えず、初子は事実上の正室でした。

初子は、万治2年(1659年)に伊達綱村(亀千代)を産み、綱宗が隠居した後、わずか2歳の亀千代が藩主に就任しました。初子は子の無事を願い、釈迦像を刻んだ香木をまげの中に納め祈願しました。また、毒殺を防ぐため、良源院の井戸から水を汲んで使用していたと伝えられています。

その後、初子は三男(伊達村和、伊達宗贇)を産み、寛文事件後は子孫の無事を願いながら、城外に守り本尊を安置するよう遺言しました。初子の弟である三沢宗直は初子の縁で仙台藩に召抱えられ、仙台藩の一門に昇格しました。初子は1686年に47歳で亡くなり、仙台城東の孝勝寺に葬られました。

初子の遺徳

伊達綱村は母の遺志を守り、榴ヶ岡に釈迦堂を建立し、しだれ桜を1万本植え、母の遺徳を称えました。初子が詠んだ「ひとふしに 千代をこめたる 杖ならば つくともつきじ 君の齢は」の歌も碑に刻まれています。

伊達騒動について

伊達騒動の概要

伊達騒動(だてそうどう)は、江戸時代前期に仙台藩で発生したお家騒動で、黒田騒動、加賀騒動、仙石騒動と共に「三大お家騒動」と称されます。特に「寛文事件」として知られています。

綱宗隠居事件

仙台藩3代藩主の伊達綱宗は放蕩三昧であったため、叔父の伊達宗勝が諌言しましたが聞き入れられず、ついに家臣らの連名で幕府に綱宗の隠居を申し出ました。結果、綱宗は1660年に21歳で隠居を命じられ、2歳の亀千代が4代藩主に就任しました。

寛文事件

伊達綱村が藩主に就任すると、伊達宗勝が実権を握り、目付の権力を強化して奉行を上回る権力を持つようになりました。これに対して伊達宗重らが幕府に上訴し、騒動が激化しました。1671年には幕府での審議中に事件が発生し、原田が宗重を斬殺して審議会に突入するという衝撃的な展開を迎えました。

この事件は仙台藩の政情に大きな影響を与え、後の歴史にも大きく関わることとなりました。

Information

名称
実相山 正覚寺
(じっそうざん しょうがくじ)

目黒・中目黒

東京都