護国寺の創建と歴史
護国寺の創建は天和元年(1681年)2月7日に遡ります。この日、徳川綱吉は母である桂昌院の願いを受け、高崎の大聖護国寺住持であった亮賢に対し、高田薬園の地を提供し、桂昌院の祈願寺として護国寺を建立するよう命じました。このようにして、護国寺は江戸時代の幕府の後ろ盾を得て発展しました。
江戸時代の護国寺
江戸時代、護国寺は浅草寺や回向院に次いで出開帳の宿寺として非常に人気があり、多くの参詣者で賑わいました。また、境内には富士塚の「音羽富士」があり、地域のランドマークとして親しまれていました。
護持院との関係
護国寺の歴史には、護持院との関わりも重要な要素として挙げられます。護持院はかつて神田にありましたが、享保2年の火災で焼失し、その跡地が火除地(護持院ヶ原)とされたため、護国寺の地に移転しました。護持院は新義真言宗で最も格式の高い寺院であり、護国寺の東側の地を占めていました。しかし、明治時代に神仏分離の影響を受けて廃寺となり、その後、旧護持院の境内は護国寺のものとなりました。
明治維新後の護国寺
明治維新後、護国寺は幕府の祈願寺であったため、檀家を持たないことから経済的に苦境に陥りました。境内地は5万坪ありましたが、そのうち東側の2万5千坪は宮家の墓所として利用され、豊島岡墓地が造られました。これは1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去を機に決定されたもので、護国寺の境内の東半分が皇族墓地とされました。また、西側の5千坪は陸軍用墓地として利用されるようになり、境内の面積は約2万坪に縮小しました。
護国寺と著名人の墓所
護国寺の境内には、多くの著名人の墓所が設けられています。明治初年には、三条実美、山縣有朋、大隈重信らの墓所が築かれました。これらは、当時の政府高官への働きかけにより、新たな墓地として認められた結果です。
護国寺の文化財と施設
護国寺には、多くの重要文化財が存在します。特に、元禄10年(1697年)に建立された本堂や、滋賀県の園城寺(三井寺)から移築された月光殿が挙げられます。月光殿は、桃山時代の建築様式を持つ建物で、その美しさから多くの茶会が催されるようになりました。また、護国寺には5つの茶室、多宝塔、不老門などがあり、これらの施設は高橋義雄(箒庵)による境内整備の一環として建設されました。
重要文化財
護国寺の重要文化財には、以下のものがあります。
- 本堂 - 元禄10年(1697年)建立
- 月光殿 - 桃山時代、旧園城寺日光院客殿
- 絹本著色尊勝曼荼羅図
- 金銅五鈷鈴
- 絹本墨画漁夫図 - 張路筆(中国・明時代)
- 綸子地梅樹竹模様染繍振袖
- 諸寺縁起集
- 騎竜観音 - 原田直次郎筆(1890年、油絵、麻布)(東京国立近代美術館に寄託、2007年度指定)
アクセス
護国寺へは、東京メトロ有楽町線の護国寺駅からすぐにアクセスできます。また、都営バスを利用する場合は、都02乙(池袋駅東口 - 一ツ橋)または上58(早稲田 - 上野広小路)で「護国寺正門」バス停で下車すると便利です。