法明寺は、東京都豊島区南池袋に位置する日蓮宗の寺院です。山号は「威光山」といい、飛地境内には鬼子母神堂があります。
かつて、法明寺は真言宗や天台宗の寺院としても知られており、吾妻鏡に登場する「威光寺」と同一視されていました。しかし、妙楽寺の日光菩薩像の内部から発見された墨書銘によって、威光寺でないことが判明しました。鎌倉時代には日蓮の弟子である日源がこの寺を日蓮宗に改宗し、寺名を「威光山法明寺」に改称しました。室町時代には鬼子母神像が安置され、門前町が形成され、茶屋が軒を連ねて賑わいを見せました。
法明寺の旧本山は身延山久遠寺であり、雑司が谷の法縁の縁頭寺でもあります。
法明寺の中心となる堂宇です。
本尊は倉稲魂命を祀っています。
本尊として日蓮上人を祀っている堂宇です。
別に記載していますが、この堂も法明寺の重要な施設の一つです。
法明寺の鬼子母神堂は、歴史的に非常に貴重な建築物として指定されています。
雑司ヶ谷鬼子母神堂
本殿、相の間、拝殿からなる複合建築で、宮殿や妙見宮、棟札なども付属しています。江戸時代を通じて庶民から崇敬を集めたこの堂は、主に安産などのご利益を願う信仰の中心となりました。鬼子母神堂の建築には、広島藩主の浅野光晟の正室による寄進があり、寛文4年(1664年)に建立されました。本殿は安芸地方の特徴を示すもので、拝殿は元禄13年(1700年)に建てられ、華やかな装飾が施されています。
平成28年(2016年)7月25日に国の重要文化財に指定されました。
は、東京都豊島区雑司が谷にある法明寺の飛地境内に位置しています。この堂は、永禄4年(1561年)に山村丹右衛門が現在の目白台付近で鬼子母神像を井戸から掘り出し、それを東陽坊に祀ったことから始まりました。天正6年(1578年)には、現在の場所に草堂が建てられました。また、正式な「鬼子母神」の表記は「鬼」の字の上に点がない特徴的な字体が用いられています。
鬼子母神堂は、その名の通り鬼子母神を本尊としています。拝殿・相の間・本殿が一体化した権現造の建築様式を採用しており、拝殿が入母屋造、本殿が流造という変形の権現造となっています。堂宇の起源は、寛文4年(1664年)に広島藩主・浅野光晟の正室である満姫の寄進によって建てられたことが、小屋束の墨書から判明しています。
拝殿と相の間は、元禄13年(1700年)に建てられたもので、これは金具の刻銘から確認されています。屋根はすべて銅板葺きであり、拝殿の向拝の梁上には龍の彫刻が施され、梁の木鼻には象頭や獅子頭が表されています。本殿は、外観が三間社流造の神社本殿形式をしている一方、内部は方三間の仏堂形式という特徴的な造りとなっています。
本殿内部の中央には、禅宗様式の須弥壇があり、その上に入母屋造の宮殿(厨子)が設置されています。この本殿は広島藩の寄進による建築であり、細部には安芸地方の社寺建築の様式が反映されています。2016年には、この鬼子母神堂は国の重要文化財に指定されました。
武芳稲荷堂は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を本尊とする堂で、鬼子母神堂の境内に位置します。この土地の地主神が祀られており、付近一帯はかつて「稲荷の森」と呼ばれていました。社殿は一間社流造で、神社建築としても特徴的です。
法不動堂は、金剛不動尊を本尊とする堂です。訪れる人々にとって、不動明王の力強い存在感を感じる場所です。
妙見堂は、妙見菩薩を本尊とする堂で、鬼子母神堂の本殿の背面に接して、反対向きに祀られています。この妙見堂も一間社流造の社殿で、鬼子母神堂の附(つけたり)として重要文化財に指定されています。
大黒堂は、大黒天を本尊としています。大黒天は、富と繁栄の象徴として信仰され、多くの参拝者が訪れます。
日蓮宗は昭和16年に本末制度を解体しましたが、現在でも旧本山と旧末寺という呼称が用いられています。
清土鬼子母神堂は、文京区目白台にある仏堂で、永禄4年(1561年)に山村丹右衛門によって掘り出された法明寺の鬼子母神が出現した旧跡です。