豊島区立 熊谷守一美術館は、東京・千早にある熊谷守一の旧居跡地に、次女の熊谷榧(かや)が1985年に開設した記念美術館です。ここでは、熊谷守一の作品を中心に、彼の芸術と生涯を伝える展示が行われています。
美術館には、熊谷守一の油絵約30点、墨絵・書・クレパス画・鉛筆画など約130点が収蔵され、展示されています。開館当初の1993年時点では、油絵16点を含む計54点が展示されていましたが、現在では多くの作品が寄贈や購入を通じて増えています。特に、守一のアトリエに残された作品や、次女の榧が購入した小品が多く含まれています。
墨絵は、単に筆と色墨で和紙に描かれた即興作品が多く、その制作年が不詳のものも少なくありません。書についても、画商に余技として与えられたものが多く、近年は高い評価を受けるようになり、展示の機会が増えています。
美術館の外観はコンクリート打ち放しのシンプルなデザインで、住宅街に調和しています。道路に面した外壁には、熊谷守一が1971年に描いた油彩『赤蟻』が大きく刻まれ、アリが砂糖を運ぶ様子が描かれています。このデザインは、モノトーンを基調とした外観に彩りを添えるユニークな特徴となっています。
また、入口のドアの把手には、守一の作品『朝のはじまり』の三重丸が象られており、さらに入口左側には榧が制作した守一の彫刻作品『いねむるモリ』が置かれています。
入口を入って右手には、大きな窓があるカフェ「Café Kaya」があり、榧のオブジェや油絵、ゆかりの作家の作品も展示されています。カフェでは、コーヒーや紅茶、焼き菓子が榧の手作りの器で提供され、訪れた人々にアートとともに落ち着いた時間を提供しています。
左手には第一展示室があり、熊谷守一の油絵約30点が常設展示されています。この展示室のドアには、守一が「自画像」と呼んだ作品『夕暮れ』の二重丸がデザインされています。室内には、榧による愛情のこもった解説が添えられ、彼の芸術世界を深く理解することができます。
第二展示室は2階にあり、墨絵や書、パステル画、クロッキーなどの作品が季節ごとに展示されます。これにより、守一の多様な創作活動を楽しむことができます。
3階には貸しギャラリーがあり、週替わりでさまざまな作家の個展や美術館の企画行事が行われています。ここでは、デッサン会なども開催され、美術館の教育的な役割も果たしています。
熊谷守一はもともと画業に対して非常に飄々とした人物で、千駄木や東中野の借家で家族とともに質素な暮らしをしていました。しかし、1932年に千早のこの地に移り住み、1977年に97歳で亡くなるまで、ここで絵を描き続けました。
当時、この地域は「池袋モンパルナス」と呼ばれ、前衛芸術を志す若者たちが集う場所でした。熊谷守一はこの地で、描きたいときに筆をとり、庭を眺めて自然と向き合う静かな生活を送りました。晩年は、全く外に出ない隠遁生活を続けましたが、彼を慕う人々や画商などの来客が絶えませんでした。
守一が亡くなった後、家は空き家となり、次女の榧が父の作品を広く見てもらいたいという思いから、この地に美術館を設立する構想を持ちました。最終的に、庭の木を一部残し、1985年5月に熊谷守一美術館が私設美術館として開館しました。
2005年からは2階を第2展示室に改装し、守一の墨絵や書の展示を中心とした展示内容に変更しました。2007年には、榧の意向により、守一の作品153点を豊島区に寄贈し、現在の区立美術館として運営されています。
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家で、フォービズムに影響を受けた芸術家です。しかし、彼の作品は晩年にかけてシンプルな抽象的表現に進化しました。富裕層の出身でありながら、極度の芸術家気質から貧困生活を送り、作品を通じて「画壇の仙人」として知られるようになりました。文化勲章や勲三等を辞退するなど、世俗的な名誉を避けた人物でもあります。
1880年、熊谷守一は岐阜県恵那郡付知に、機械紡績業を営む事業家の父、熊谷孫六郎と母タイの三男として生まれました。父の孫六郎は自らの努力で成功を収めた人物で、岐阜市長や衆議院議員も務めましたが、守一は幼い頃から絵を好んで描いていました。17歳で上京し、慶應義塾に一学期通った後、絵画の道を歩む決意を固めました。
1898年、共立美術学館に入学し、さらに東京美術学校に進学しました。同級生には青木繁や山下新太郎がいました。守一はこの時期、スケッチ旅行を通じて自然や人々の生活に触れ、その経験が後の作品に影響を与えました。
1909年には、自画像『蝋燭』が第三回文展で入賞し、若き画家としての才能が認められました。しかし、その後は一時的に実家に戻り、日雇い労働に従事するなど波乱に満ちた生活を送ります。
1922年、42歳の熊谷は18歳年下の大江秀子と結婚し、5人の子供を授かりました。しかし、彼の家族生活は苦難に満ちており、次男の陽や長女の萬など、多くの子供を病気で失いました。息子・陽の亡骸を描いた『陽の死んだ日』(1928年)は、彼が経験した深い悲しみを表現した作品として知られています。
1932年、熊谷は池袋モンパルナスと呼ばれる芸術家たちが集う地域の近くに移り住みました。そこでは貧しいながらも自然と向き合い、庭の小宇宙の中で絵を描き続けました。彼の庭での観察が、後の作品に大きな影響を与えています。彼は自ら「30年間、家から出ていない」と言っていましたが、実際には脳卒中を患った後から外出を控えるようになったとされています。
晩年の熊谷は文化勲章の受賞を辞退するなど、名誉を避け、自宅の庭で日々を過ごしていました。彼の作品には、庭にやってきた鳥や昆虫、猫、花など、身近な自然のモチーフが多く描かれています。1977年、熊谷は97歳で老衰と肺炎により亡くなりました。墓所は多磨霊園にあります。
熊谷守一は写実画からスタートし、表現主義を経て、独自の「熊谷様式」を確立しました。そのスタイルは極端に単純化された形や輪郭線で、具象画でありながら抽象的な要素が強い作品となっています。生活苦や子供たちの死など、人生の重いテーマも作品に反映され、彼の画風は非常に個性的で深いものです。
熊谷守一は絵画だけでなく音楽にも深い愛着を持っており、チェロやヴァイオリン、三味線などを自ら演奏しました。作曲家の信時潔とは長年の親友であり、彼との音楽的な交流が熊谷の作品にも影響を与えました。また、彼は音楽理論や音の周波数に関心を持ち、理論的な計算にも取り組んでいた時期があります。
1985年、次女の熊谷榧によって守一の旧居に「熊谷守一美術館」が設立されました。2007年には美術館が豊島区に寄贈され、現在は区立の美術館として多くの人々に守一の作品を公開しています。また、2015年には中津川市に「熊谷守一つけち記念館」が設立され、郷里でも彼の芸術が称えられています。
熊谷守一の作品は、写実と抽象の融合により、今日でも高く評価され続けています。彼の独特な画風は、線と面を使った極めてシンプルな構成でありながら、豊かな生命感を伝える力があります。