本妙寺は、東京都豊島区巣鴨5丁目に位置する法華宗(陣門流)の別院です。その山号は徳栄山、院号は総持院と称されます。
本妙寺の歴史は、元亀2年(1572年)に智存院日慶が開山したことに始まります。当時、徳川家康の家臣であった久世広宣や大久保忠勝らが、家康が岡崎から浜松に移る際に日慶上人に依頼し、この寺を創建しました。
天正18年(1590年)、家康が江戸城に入るとともに、本妙寺も江戸に移転されました。しかし、清水御門内礫川町にあった本妙寺は、まもなく御用地となり、飯田町に替地を与えられ移転しました。その後、慶長年間には火災により牛込門内に再度移転され、元和2年(1616年)には安藤対馬丸の助力により、小石川(現在の文京区)に移転しました。
寛永13年(1636年)に小石川の堂塔伽藍が全焼し、本妙寺は本郷丸山(現在の文京区本郷5丁目)へ再移転しました。この地に移転後、寺は「丸山様」として親しまれるようになり、約270年間この地にあり続けました。
明暦3年(1657年)の明暦の大火、通称「振袖火事」は、本妙寺が火元であるとの説がありますが、実際の火元は不明です。振袖物語はあくまで伝承であり、事実としての根拠はありませんが、天和2年(1682年)の天和の大火や八百屋お七の事件などと結びつけられることがありました。
火元については、複数の説があります。一つは、丸橋忠弥や由井正雪の残党が放火したという説、もう一つは江戸の都市計画を進めるために火元が本妙寺に引き寄せられたという説です。また、老中阿部忠秋の屋敷が火元だったという説もあり、老中の威信を守るために本妙寺が火元を引き受けたとされています。
事実として、大火後も本妙寺は幕府から咎められることなく、数年後には元の場所で再建されました。その後、法華宗勝劣各派の触頭に昇格するという異例の処遇を受けています。
明治41年(1908年)に本妙寺は、現在の豊島区巣鴨5丁目に移転しました。この移転は、本成寺再建のためであり、塔頭六ヶ院も廃止されました。昭和16年(1941年)には本妙寺は総本山本成寺の別院となり、昭和20年(1945年)の東京大空襲では、鐘楼と山門の片側を除いてほぼ全てが焼失しましたが、本尊や一部の書物は無事に保たれました。
本妙寺には、東京都指定旧跡である遠山景元の墓をはじめ、多くの著名人の墓所が存在します。例えば、将棋の名手である天野宗歩、剣の名人である千葉周作、そして幕末の英語通詞である森山多吉郎の墓などがその例です。
江戸町奉行として知られる遠山景元の墓は、本妙寺の文化財として特に重要です。彼は、時代劇『遠山の金さん』のモデルとなった人物であり、その墓所は多くの人々に親しまれています。
本妙寺には、遠山景元の墓以外にも、竹内久一や清水晴風などの墓所があります。また、清水建設物故社員慰霊塔も建立されています。
さらに、本妙寺は、総本山本成寺を中心に、多くの関連寺院を有しており、東京都内や近隣県にも広くその影響を及ぼしています。例えば、東京都文京区の善心寺や港区の立行寺、神奈川県横浜市の豊顕寺などがその例です。
本妙寺は、長い歴史と共に多くの移転と再建を繰り返しながら、現在も豊島区巣鴨にその姿を残しています。歴史的な大火災や戦争の影響を受けながらも、寺院としての役割を果たし続け、多くの人々に崇敬されてきました。その歴史と文化財は、今後も大切に守られ続けることでしょう。