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自由学園 明日館

(じゆうがくえん みょうにちかん)

自由学園明日館は、東京都豊島区西池袋にある歴史的建築物で、学校法人自由学園が所有しています。この施設は、1921年(大正10年)に羽仁吉一・もと子夫妻によって設立された女学校の校舎として建てられました。当初は本科と専攻科から成る女学校として開校し、その後、卒業生の活動拠点としても活用されました。設計はフランク・ロイド・ライトとその弟子である遠藤新によるもので、現在は国の重要文化財に指定され、文化財の保存と活用のモデルケースとなっています。

設立の背景と沿革

自由学園明日館は1921年、フランク・ロイド・ライトが設計し、羽仁吉一・もと子夫妻によって開校された学校の校舎として建てられました。当初は東京府北豊島郡高田町雑司ヶ谷村に所在し、1921年4月に最初の入学式が行われました。初年度の生徒数は本科1年生26名でした。建物は中央棟、西教室棟、東教室棟、講堂などから成り、ライトが設計した中央棟と西教室棟が特に注目されています。

1934年に学校機能が移転した後も、明日館として引き続き自由学園が所有し、卒業生による活動や結婚式場、コンサート会場として利用されてきました。1997年には国の重要文化財に指定され、その後、保存修復活動が進められました。

建築の特徴

フランク・ロイド・ライトと遠藤新の協働

自由学園明日館の建物群は、ライトとその弟子遠藤新による設計によって成り立っています。ライトは1921年、帝国ホテルの設計のために来日しており、遠藤新の紹介で羽仁夫妻と出会いました。自由学園の理念に共感したライトは、校舎の設計を引き受け、1922年には中央棟と西教室棟が竣工しました。さらに、東教室棟が1925年、講堂が1927年に建設されました。

大谷石の装飾とライトのデザイン

建物の特徴として、大谷石を多用した幾何学模様の装飾があります。ライトは、彼のデザイン哲学である「プレーリー・ハウス」スタイルを取り入れ、水平線を強調した軒高を低く抑えた建物を設計しました。このデザインは、草原住宅としても知られ、自由学園明日館はその典型例とされています。

校地移転とその後の歴史

自由学園は1925年から北多摩郡久留米村南沢(現・東久留米市学園町)へ移転を開始し、1934年に全学部が新校舎に移りました。移転後、旧校地は「明日館」と名付けられ、卒業生の活動拠点として利用されました。また、1948年から1973年まで生活学校の校舎としても使われ、その間、大蔵省主税局が一時的に使用したこともありました。

保存と修復活動

1997年5月29日、自由学園明日館は国の重要文化財に指定されました。しかし、当時は建物の老朽化が著しく、「建物の中で傘をさすほど」雨漏りがひどい状態でした。1999年3月から2001年9月にかけて、大規模な保存改修工事が行われました。この工事では、鉄骨による補強や屋根の漏水防止などが行われ、建物の色彩も竣工時の状態に復元されました。

復元と発見された壁画

復元作業の際、建物内部では貴重な壁画も発見されました。中央棟ホール西側の漆喰壁の下から発見されたフレスコ画は、旧約聖書の「出エジプト記」を題材にしたもので、開校10周年を記念して在校生たちが描いたものです。この壁画は、専門家と学生たちの手で修復が行われ、現在ではその姿を目にすることができます。

文化財としての利用

保存修復が完了した現在、自由学園明日館は文化財として一般に公開されており、見学が可能です。また、結婚式やコンサート、その他の文化的イベントの会場としても広く利用されています。文化財建築を活用しながら保存する「動態保存」のモデルケースとして注目されています。

指定文化財と建造物の概要

自由学園明日館には、以下の4つの建造物と土地が国の重要文化財として指定されています。

中央棟と西教室棟はライトの設計によるもので、東教室棟と講堂は遠藤新が設計しました。建物の配置は「コ」の字形をしており、前庭を囲むように建てられています。これらの建物は木造モルタル仕上げで、屋根は鉄板葺きに改修されています。

ライトのプレーリー・ハウス

特に中央棟は、1階にホールと厨房、2階にギャラリーと食堂を設ける独特の設計です。建物全体が低く広がる水平的なデザインで、ライトのプレーリー・ハウスの特徴が色濃く表れています。自由学園明日館は、日本におけるライトの代表作の一つとして高く評価されています。

フランク・ロイド・ライト:近代建築の巨匠

フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、1867年6月8日 - 1959年4月9日)は、アメリカの建築家で、「近代建築の三大巨匠」の一人として広く知られています。彼の建築はアメリカ大陸を中心に展開され、特に「カーポート」という言葉を名付けたことで知られています。日本でも多くの作品を残し、建築界に多大な影響を与えました。

ライトの生涯

ライトはウィスコンシン州で牧師の父と教育熱心な母のもとに生まれました。ウィスコンシン大学マディソン校の土木科を中退後、シカゴに移り、建築家ジョセフ・ライマン・シルスビーの事務所で働き始めました。その後、アドラー=サリヴァン事務所に移り、ライトはルイス・サリヴァンを「愛する師匠」と尊敬し、住宅設計を任されました。サリヴァンの影響は、彼の後の作品にも色濃く残っています。

1893年、アドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立したライトは、最初の作品であるウィンズロー邸を設計しました。彼の建築スタイル「プレイリースタイル(草原様式)」は、水平線を強調し、部屋を区切らず広い空間を作り出す特徴があり、シカゴ周辺で非常に人気を博しました。

代表作とプレイリースタイル

ライトのプレイリースタイルは、屋根裏や地下室を廃し、建物の高さを抑えたデザインが特徴です。1906年のロビー邸がその代表的な作品であり、このスタイルは当時のアメリカ建築界に新しい風を吹き込みました。また、ライトは日本の文化からも影響を受けており、平等院鳳凰堂の模型からインスピレーションを得たとも言われています。

不倫事件と建築家としての低迷

しかし、ライトの私生活はスキャンダルに満ちていました。1909年、ライトはチェニー夫人と不倫関係に陥り、家庭を捨てて彼女と駆け落ちします。この事件が原因でライトの名声は地に落ち、設計依頼が激減しました。しかし、その後、日本からの依頼で帝国ホテルの新館設計を手がけることとなり、日本でも大きな足跡を残しました。

日本での活動と帝国ホテル

ライトは1913年、東京での帝国ホテルの設計を引き受けました。ライトのデザインは美しいだけでなく、関東大震災にも耐えたことから高く評価されました。しかし、予算オーバーや工期の遅れにより、ホテルの完成を見ることなく日本を去ることとなりました。完成は弟子である遠藤新が指揮を取り、1923年に竣工しました。

タリアセンと悲劇

ライトの人生には多くの悲劇が伴います。彼の愛人であるママー・チェニーとの新居「タリアセン」では、使用人によってチェニー夫人やその子供たちが惨殺される事件が起こりました。この事件でライトは大きな精神的打撃を受けましたが、その後、1930年代に再び建築家として復活します。

カウフマン邸とジョンソンワックス社

1930年代後半、ライトは70歳を迎えるにあたり、「カウフマン邸(落水荘)」や「ジョンソンワックス社」など、再び建築界で注目される作品を発表しました。これらの作品は、カンチレバー(片持ち梁)を効果的に使用したデザインで、ライトのモダン建築の頂点とされています。

ユーソニアン・ハウス

また、ライトは「ユーソニアン・ハウス」という新たな建築スタイルを考案し、工業化住宅を次々と設計しました。これにより、より安価で質の高い住宅を提供することを目指し、1936年のジェイコブス邸がその代表作となっています。

晩年と日本文化への影響

ライトのスタイルは幾何学的な装飾や流れるような空間構成が特徴であり、彼は日本の浮世絵にも大きな関心を持っていました。実際に浮世絵を収集し、日本文化から多くの影響を受けていたことが彼の作品からも窺えます。

世界遺産への登録

2019年、ライトの建築作品群が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」として世界遺産に登録されました。ユニティー・テンプルやタリアセン、落水荘、グッゲンハイム美術館など、彼の代表作が世界的に評価され、建築界における彼の功績が改めて認められました。

Information

名称
自由学園 明日館
(じゆうがくえん みょうにちかん)

池袋

東京都