永代橋は、東京都中央区と江東区を結ぶ隅田川に架かる橋で、東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通しています。この橋は、国の重要文化財に指定されており、特にその青白くライトアップされた夜景は、美しい都内のランドマークの一つとして広く知られています。
永代橋は、1926年に竣工した下路式スチールアーチ橋です。この橋の設計には、田中豊氏が原案を提出し、竹中喜忠氏が設計を行いました。また、建築家の山田守や山口文象(岡村蚊象)も意匠面で関与しており、工事には日本初のニューマチックケーソン工法が用いられました。橋の全長は184.7m、幅員は25.0mで、東京市復興局の施工主体により建設されました。
永代橋が初めて架けられたのは、元禄11年(1698年)8月1日のことで、隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目の橋として完成しました。架橋の目的は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳の誕生日を祝う記念事業の一環として行われ、関東郡代の伊奈忠順がその指導を担当しました。場所は当時の隅田川の最下流、江戸湊の外港付近であり、橋の名称「永代橋」は、近隣に存在した永代島に由来しています。
1807年9月20日(文化4年8月19日)、深川富岡八幡宮の祭礼の際に、永代橋は詰めかけた群衆の重みに耐え切れず、崩壊しました。この事故により、1400人を超える死傷者・行方不明者が発生し、史上最悪の落橋事故として記録されています。この事故を題材にした狂歌や古典落語、曲亭馬琴の『兎園小説』にもその惨状が描かれています。
永代橋は明治時代に入り、1897年に日本初の鉄橋として再架橋されました。頑丈なトラス橋であり、東京市街鉄道(後の東京都電)の路面電車も通っていました。しかし、1923年の関東大震災では、隅田川に架かる他の橋と同様に永代橋も炎上し、避難民の多くが犠牲となりました。
関東大震災後の復興事業として、隅田川に架かる9つの橋の再建が行われ、1926年に現在の永代橋が完成しました。この橋はドイツのライン川に架かるルーデンドルフ鉄道橋(レマゲン鉄橋)をモデルにしており、東京の門としてその存在感を放っています。
2000年には清洲橋と共に土木学会選奨土木遺産に選定され、2007年には都道府県の道路橋として初めて国の重要文化財に指定されました。
地図上では永代橋の下を東京メトロ東西線が通過しているように見えますが、実際には永代橋の約25m下流を通過しています。東西線の建設時には、過去に架設されていた旧永代橋の橋台や橋脚の撤去作業が行われ、多大な労力がかかりました。
永代橋の航行量は、1921年3月5日には688隻でしたが、2014年には174隻と約100年で4分の1に減少しています。隣接する橋には、上流側に清洲橋と隅田川大橋、下流側に中央大橋と佃大橋が存在します。
永代橋は文学作品や映画、ドラマの舞台としても登場します。例えば、杉本苑子の『永代橋崩落』や池波正太郎の『鬼平犯科帳』、1973年の映画『日本沈没』では第二関東大震災のシーンで永代橋が登場します。