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歌舞伎座

(かぶきざ)

歌舞伎座は、東京都中央区銀座(東銀座)にある歌舞伎専用の劇場です。火災や戦災など、様々な変遷を経て今日に至るまで、名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られています。

歌舞伎座は、1889年(明治22年)に開場しました。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが一般的でしたが、歌舞伎座という名称はその中でも異例でした。当時「歌舞伎座」とは、権威ある大芝居の劇場を意味する普通名詞として用いられており、福地桜痴がその普通名詞を固有名詞として掲げたとされています。

歌舞伎座は、大正時代から松竹の直営で経営されており、これまでに4度建て直されています。2014年現在のものは5代目にあたるもので、「株式会社歌舞伎座」(英: Kabuki-Za Co.,Ltd.)が劇場を所有しています。

歴史

近代劇場としての設立

歌舞伎座は、明治時代の演劇改良運動の流れを受け、ジャーナリストの福地源一郎(福地桜痴)と金融業者の千葉勝五郎による共同経営で1889年に開設されました。当時、歌舞伎座は東京市京橋区木挽町に建てられ、舞台の広さや設備面でそれまでの劇場を凌駕する近代劇場として注目を集めました。

経営の変遷と歌舞伎の黄金時代

設立当初から多くの名優が歌舞伎座の舞台に立ち、「團菊左」と呼ばれる明治の歌舞伎黄金時代を象徴する劇場となりました。しかし、福地桜痴は借金問題により経営から離れることになり、その後の経営は株式組織化され、松竹が経営を握ることになります。

1921年には漏電による火災で歌舞伎座は焼失しましたが、直ちに再建工事が行われ、1924年に再開されました。その後も歌舞伎座は度重なる災害や戦災を乗り越え、東京の新たな名所としての地位を確立しました。

戦後の復興と第4期歌舞伎座

第二次世界大戦中、歌舞伎座は東京大空襲で全焼しましたが、1949年に「株式会社歌舞伎座」が再び設立され、松竹から建物を譲り受けて復興工事が行われました。1951年には歌舞伎座は再びその姿を取り戻し、演劇興行を再開しました。この復興にはGHQの副官フォービアン・バワーズの尽力が大きかったとされています。

第5期歌舞伎座の誕生

2000年代に入り、歌舞伎座の老朽化や耐震性の問題が指摘されるようになり、2005年から建て替えの検討が始まりました。その結果、2009年から行われた「さよなら公演」の後、2010年に第4期歌舞伎座は閉場し、2013年には第5期歌舞伎座が完成しました。

第5期歌舞伎座は、和風桃山様式を取り入れた4階建ての劇場で、1,964席を有しています。また、高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」と地下広場「木挽町広場」が併設され、歌舞伎座タワーの5階には歌舞伎座ギャラリーが設けられています。

特色

歌舞伎座は、現代においては珍しい単独の大劇場としての存在です。近年では、文化財保護や町おこしの一環として、歌舞伎劇場の維持・整備に力を入れる自治体も増えていますが、都市部では複合施設に入居する劇場が主流となっています。そのため、歌舞伎座は独立した大劇場としての価値が一層高まっています。

定紋と歌舞伎座再生計画

鳳凰丸

歌舞伎座の定紋「鳳凰丸」は、法隆寺の宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃」の文様に由来します。また、毎年11月の顔見世興行の際には、歌舞伎座の正面に櫓が上がり、定紋の「鳳凰丸」が描かれた布が掛けられます。

歌舞伎座再生計画

2000年代に入り、歌舞伎座は老朽化や耐震性の問題が指摘されるようになり、2005年から建て替えの検討が始まりました。建て替え案としては、「建て替え+超高層オフィス棟」の計画が提案され、2009年からの「さよなら公演」を経て、2010年に第4期歌舞伎座は閉場し、2013年に第5期歌舞伎座が完成しました。

現在の歌舞伎座は、伝統的な和風建築と現代的なオフィスビルが融合した施設として、歌舞伎の公演のみならず、日本文化の象徴として国内外から多くの観客を迎えています。

Information

名称
歌舞伎座
(かぶきざ)

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