清洲橋は、東京都の隅田川にかかる歴史的な橋で、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を通しています。この橋は、西岸が中央区日本橋中洲、東岸が江東区清澄一丁目に位置しており、その名称は公募によって決まりました。名称の由来は、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られたものです。
清洲橋は、関東大震災後の震災復興事業の一環として計画され、同じく隅田川にかかる永代橋とともに建設されました。永代橋が「帝都東京の門」として知られるのに対し、清洲橋は「震災復興の華」と称され、その優美なデザインが特徴です。この橋の設計と建設を主導したのは、帝都復興院橋梁課長の田中豊であり、永代橋がアメリカ人技術者の協力を受けていたのに対し、清洲橋は純粋に日本人の手で設計・建設されました。
清洲橋の設計には、再び災害に見舞われることを想定した耐久性の確保が重視されました。その一例が、日本で初めて導入されたニューマチックケーソン技術で、水底30メートルまで基礎を打ち込むことで強度を高めました。また、橋の基礎は鉄骨コンクリートで構築され、その上に50センチメートルの厚さの御影石を覆って塩害から保護しています。
清洲橋の建設には、デュコール鋼(低マンガン鋼)という素材が世界で初めて使用されました。この鋼材は元々、イギリス海軍が軍艦用に開発したもので、日本国内では川崎造船所が日本海軍向けに製造していました。デュコール鋼の使用により、橋の強度が一層高められました。
清洲橋のデザインは、ドイツのケルン市にかつて存在したヒンデンブルク橋の大吊橋をモデルにしています。残念ながら、このヒンデンブルク橋は第二次世界大戦中に破壊されましたが、清洲橋はそのエッセンスを取り入れた優美な吊橋として現在も残っています。
清洲橋は、もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所に設置されました。そして、2000年(平成12年)には、永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定され、その歴史的価値が認められました。また、2007年(平成19年)6月18日には、都道府県の道路橋として初めて、勝鬨橋や永代橋とともに国の重要文化財(建造物)に指定されました。
2020年(令和2年)8月1日からは、清洲橋を含む隅田川の橋梁群が夜間にライトアップされ、その美しさがさらに際立つようになりました。このライトアップは、橋の持つ歴史的価値と近代的な美しさを融合させ、訪れる人々に新たな感動を提供しています。
清洲橋は、自碇式鋼鉄製吊橋として設計され、以下のような特徴を持っています。
橋長: 186.3メートル
幅員: 22.0メートル
着工: 大正14年3月
竣工: 昭和3年3月
清洲橋は、隅田川にかかる他の橋と共に東京都の交通を支える重要な役割を果たしています。特に、上流には両国大橋や新大橋があり、下流には隅田川大橋や永代橋が位置しています。これらの橋はそれぞれに特徴があり、清洲橋とともに東京の風景に欠かせない存在となっています。