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感應寺(蓮光院)

(かんのうじ)

感應寺は、東京都江戸川区一之江七丁目にある日蓮宗の寺院です。山号は江久山、別名は蓮光院とも称されています。創建は元久2年(1205年)であり、正応元年(1288年)に真言宗から日蓮宗に改宗しました。開基は、総本山である身延山久遠寺の第3世を継承した日進です。江戸川区内で現存する中で最も古い梵鐘を所持しており、これは区指定有形文化財として指定されています。

創建と歴史的背景

創建

感應寺は元久2年(1205年)、真言宗の僧である空念によって開山されました。その後、正応元年(1288年)に日蓮の孫弟子である日進が訪れ、法論の結果、日蓮宗に改宗されたと伝えられています。日進はその後、正和2年(1313年)に甲斐の身延山久遠寺の第3世を継承し、諸堂の建立に尽力し、身延山の発展に寄与しました。また、日進は下総の中山法華経寺とも親交を持ち、上総・下総でも布教を行いました。

近世の発展

江戸時代、幕府の統制の下で寺院は本末制度により序列が決まり、仏教勢力の武力が抑制されました。感應寺は大本山である千葉県の法華経寺(中山門流)の末寺として中本寺の格を持ちました。キリスト教徒による島原の乱を受けて幕府は檀家制度を設け、仏教僧の教育を奨励しました。この時期、感應寺は日蓮宗関東3大檀林の1つである小西檀林の学系となり、多くの僧侶を輩出しました。

梵鐘の歴史

江戸時代初期、感應寺では梵鐘の製作計画が立てられましたが、頓挫しました。その後、元禄11年(1698年)に18世・日恵が檀信徒の支援を受けて梵鐘を製作しました。この梵鐘は将軍家の御用釜師を務めた鋳物師、太田近江大掾藤原正次によって鋳造されました。感應寺の梵鐘は江戸川区内で最も古く、戦時供出を免れた唯一の梵鐘として現在も残っています。

近代の再建と戦時中の影響

昭和10年(1935年)、感應寺36世・日隆が新たに本堂を建立しました。その後、日隆は千葉県茂原の藻原寺79世となりました。昭和14年(1939年)には戦時下で宗教団体法が公布され、翌年施行されました。この法律により、日蓮宗は宗教法人として認められ、本山と末寺の関係が解消されました。

戦後の発展と再建

戦後、GHQの指導のもと農地改革が行われ、寺院は農地を失いましたが、その後の高度経済成長やバブル景気に伴い、感應寺も江戸川区の人口増加と共に檀家を増やして再建を図りました。昭和46年(1971年)、37世・日進が檀信徒の助力を得て庫裡書院を建立しました。

平成期の発展

平成期に入ると、不況や家族間における「共同体」意識の希薄化が進み、新たな墓の形として永代供養墓や納骨堂、散骨、樹木葬などが考案されるようになりました。感應寺も平成25年(2013年)に永代供養墓として納骨堂を建立しました。

再建と文化財の保存

平成20年(2008年)、38世・日裕のもと、本堂・鐘楼堂・客殿・庫裡が再建されました。本堂と鐘楼堂は木造で、客殿と庫裡は鉄筋コンクリートで建てられました。平成30年(2018年)には檀家の寄進により境内に日蓮の銅像が建立され、同年11月には日裕が日蓮宗の本山・大野山本遠寺に65世として加歴晋山しました。

日蓮銅像の建立

平成30年(2018年)3月、感應寺境内に日蓮の銅像が建立されました。台座には日蓮が書いた「立正安国」の文字が復元されています。感應寺の日蓮銅像(約1.8m)は、千葉県鴨川市にある大本山・清澄寺の旭が森に建立された日蓮銅像を等身大に近付けて復元したものです。

文化財の紹介

感應寺梵鐘

感應寺の梵鐘は、1982年(昭和57年)に「江戸川区指定有形文化財・工芸品」に指定されました。元禄11年(1698年)に鋳造されたこの梵鐘は、江戸川区内で最も古いとされ、戦時中の供出を免れた唯一の梵鐘です。

賢性院日是大徳筆小塚

賢性院日是大徳筆小塚は、1988年(昭和63年)に「江戸川区登録有形文化財・歴史資料」に指定されました。江戸時代、感應寺塔中の是林坊で筆子を指導した賢性院日是大徳の供養塔です。

仏涅槃図

感應寺の寺宝として、釈迦入滅時の悲嘆の情景を描いた仏涅槃図を所蔵しています。元禄年間(1688年 - 1703年)に描かれたこの涅槃図は、2度にわたり修復されています。

永代納骨堂と鐘楼堂

感應寺の永代納骨堂は、平成25年(2013年)に建立されました。鐘楼堂は中世の折衷様式を用いて平成20年(2008年)に建立され、いずれも現代の建築技術と伝統を融合させた設計となっています。

Information

名称
感應寺(蓮光院)
(かんのうじ)

亀戸・葛西・門前仲町

東京都