大島稲荷神社は、東京都江東区大島5丁目に位置する神社です。旧社格は村社であり、現在も地域の人々に大切にされています。祭神は宇賀之御魂神(うがのみたまのかみ)と迦具土之命(かぐつちのみこと)で、衣食住や出世、災難除け、産業繁栄にご利益があるとされています。
大島稲荷神社の創建は、慶安年間(1648年 - 1651年)にさかのぼります。当時、小名木川近くの海辺が度々津波に襲われ、耕地が荒廃したため、村人たちは協議の末、京都の伏見稲荷大社から分霊を奉遷し、産土神として祀ることにしました。これが神社の起源です。
その後、大島稲荷神社は周辺の神社を合祀しました。特に、愛宕山勝智院の境内にあった愛宕神社と、柳川藩下屋敷にあった太郎稲荷が合祀されています。太郎稲荷は、19世紀初頭に大人気となった流行神で、落語「ぞろぞろ」の舞台にもなりました。
また、元禄5年(1692年)には、松尾芭蕉が小名木川を下って神社を訪れ、「秋に添て行はや末は小松川」の句を詠んだとされています。その句碑である「女木塚」が境内に残されています。
昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で、神社の社殿や社務所は全焼してしまいました。しかし、すぐに仮社殿が建立され、戦後の復興を遂げます。昭和42年には氏子や崇敬者の支援により、現在の社殿と社務所が再建されました。平成11年には新たな大神輿が再建され、平成22年には中神輿も新造されました。
大島稲荷神社には、多くの文化財が残されています。これには、次のような貴重な文化財が含まれます:
大島稲荷神社は、小名木川が水運交通の要所であった江戸時代、多くの文人墨客が訪れた場所でもあります。松尾芭蕉、広重、小林一茶などがこの地を訪れ、それぞれの足跡が神社にも残されています。
松尾芭蕉は、50歳のときに門弟である桐奚の宅を訪ねる途中でこの神社に立ち寄り、名句を残しています。また、平成元年には「俳聖松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑」、平成12年には「俳聖松尾芭蕉翁像」が神社境内に建立されました。
大島稲荷神社の例大祭は、古くから地域で盛大に行われてきました。文化11年(1814年)には「新編武蔵風土記稿」にも記載されており、「稲荷社愛宕社共に村内及び大島町の鎮守なり」との記述が見られます。このことからも、江戸時代を通じてこの神社が地域の守護神として崇敬されてきたことがわかります。
明治時代から昭和初期にかけて、神社は複数の神社を合祀し、広大な境内地を誇っていました。昭和19年には愛宕神社を合祀し、その後の東京大空襲で社殿は焼失しましたが、昭和21年には仮社殿が建てられ、昭和42年に新たな社殿が再建されました。平成11年には大神輿、平成22年には中神輿が新造され、現在も地域の祭礼で使用されています。
大島稲荷神社へのアクセスは以下の通りです:
大島稲荷神社は、歴史的な文化財や文人との深い関わりがある神社として、多くの参拝者を集めています。境内には風情ある史跡が点在し、江戸の歴史を感じながら参拝できる場所です。