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田河水泡・のらくろ館

(たがわ すいほう かん)

田河水泡・のらくろ館は、東京都江東区森下にある美術館で、漫画『のらくろ』で有名な田河水泡の業績を後世に伝えるための施設です。江東区の多機能型文化ホールである森下文化センターの1階に位置し、訪れる人々に田河の作品世界を体験させる場となっています。

概要

1999年11月に開館した田河水泡・のらくろ館は、田河水泡が幼少期から青年期までを過ごした江東区に設立されました。1998年、田河の遺族から寄贈された作品や書斎机などの遺品が、公益財団法人・江東区文化コミュニティ財団によって整理され、展示されることになりました。

展示内容

館内では、『のらくろ』に関連する数々の展示物や資料を通して、田河水泡の業績を深く知ることができます。展示物には、『のらくろ』の初版本(1931年)や原画、ストーリーの一部、さらには『少年倶楽部』や『丸』といった掲載誌も含まれ、作品がどのように時代に影響を与えてきたのかが感じられます。

「のらくろーど」と文化親善大使

近隣の高橋商店街は「のらくろーど」と名付けられ、地域全体が『のらくろ』と田河水泡の文化に彩られています。2004年12月18日、開館5周年を記念して、『のらくろ』は江東区の文化親善大使に任命されました。

沿革

田河水泡の生涯と業績

田河 水泡(たがわ すいほう、1899年 - 1989年)は、日本の漫画家および落語作家として広く知られています。本名は高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)で、昭和初期の子供向け漫画を代表する存在として評価されています。代表作の『のらくろ』は、大人から子供まで幅広い層に支持され、キャラクターグッズが多く作られるなど社会現象となりました。

幼少期から学生時代

田河水泡は東京府本所区本所林町(現・東京都墨田区立川)で生まれましたが、母親を早くに失い、伯父夫婦に育てられました。伯父の影響で絵を描くことに興味を持ちましたが、父親の再婚後も生活は安定せず、数々の困難に見舞われました。育ての親も小学生時代に亡くなり、彼は早くから働き始めます。

落語作家としての活動

卒業後、文筆業に挑戦し、最初は新作落語の執筆で成功を収めます。ペンネーム「高沢路亭」で作品を発表し、後に漫画の挿絵も依頼されるようになりました。このころ、落語作家としての活動と並行して漫画の執筆を始め、1929年には日本初のロボット漫画『人造人間』を連載します。

『のらくろ』と漫画家としての成功

漫画家としてのペンネーム「田河水泡」は、彼の本名を基に作られたものです。代表作『のらくろ』は、1929年に連載を開始し、主人公が軍隊での階級を上げるごとにタイトルが変わる斬新な設定で、爆発的な人気を得ました。戦前、のらくろグッズが市場に溢れ、日本で初めて漫画キャラクターが商業的に成功した作品となりました。

戦後の活動と晩年

戦後、田河水泡は再び『のらくろ』の執筆を開始し、落語の執筆や日本人の笑いの研究にも取り組みました。また、1969年には紫綬褒章を受章し、文化人としての地位を確立しました。晩年はクリスチャンとなり、長谷川町子などと深い関わりを持ちました。

晩年と死去

1987年には勲四等旭日小綬章を受章し、1989年12月12日に肝臓がんで亡くなりました。田河水泡の功績は、彼の死後も遺族によって引き継がれ、江東区にある「田河水泡・のらくろ館」でその業績が展示されています。

弟子と後継者

田河水泡のもとには多くの弟子が集まり、後に独立して活躍した漫画家も多くいます。特に、山根兄弟と永田竹丸は「のらくろトリオ」として知られ、田河の死後も『のらくろ』の公式漫画やイラストを描き続けました。

施設情報

所在地

〒135-0004 東京都江東区森下3-12-17(江東区森下文化センター 1階)

指定管理者

公益財団法人江東区文化コミュニティ財団

利用案内

交通アクセス

Information

名称
田河水泡・のらくろ館
(たがわ すいほう かん)

亀戸・葛西・門前仲町

東京都