根津神社は、東京都文京区根津に位置する由緒ある神社です。旧社格は府社であり、元准勅祭社(東京十社)の一つとして知られています。また、この神社はつつじの名所としても有名で、毎年多くの参拝者が訪れます。
根津神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が約1900年前に創祀したと伝えられる古社で、東京十社の一社に数えられています。現在の社殿は、宝永3年(1706年)に甲府藩主の徳川綱豊(後の江戸幕府第6代将軍徳川家宣)が献納した屋敷地に造営されたものです。この社殿は、権現造(ごんげんづくり)と呼ばれる本殿、幣殿、拝殿を一体化した形式で、その美しい構造は権現造の傑作とされています。
社殿7棟は国の重要文化財に指定されており、その歴史的価値が高く評価されています。また、境内はツツジの名所としても広く知られており、毎年春には美しい花々が咲き乱れ、多くの人々が訪れます。
根津神社の周辺には、日本文学の巨匠たちに関連する旧跡も残されています。森鷗外が文京区に移住した際、最初に住んだ千朶山房(せんださんぼう)や、後に夏目漱石が住んだ家が近くにありました。特に、森鷗外は根津神社の氏子であり、小説『青年』には「根津権現」として登場しています。
2021年に閉館した旅館「水月ホテル鷗外荘」(台東区池之端)で使用されていた鷗外の旧邸は、根津神社に移築されることが決定されました。この邸宅は鷗外が最初の妻と共に暮らした場所であり、彼の文学活動にも影響を与えたと言われています。
江戸時代、根津神社は山王神道の権現社であり、「根津権現」として広く知られていました。しかし、明治初期の神仏分離の際に「権現」の称号が一時的に禁止され、この呼称は衰退しました。現在でも地元では「権現様」として親しまれており、文学作品にも「根津権現」として頻繁に登場します。
根津神社の主祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、大山咋神(おおやまくいのかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)の三柱です。神仏習合の時代には、これらの神々はそれぞれ仏教の本地仏として信仰されていました。
また、相殿には大国主神(おおくにぬしのかみ)と菅原道真公(すがわらのみちざねこう)が祀られており、根津神社の信仰の幅広さを示しています。
『根津志』によれば、根津神社の創建は約1900年前、日本武尊が千駄木に創祀したとされています。その後、文明年間(1469年-1486年)には、太田道灌により社殿が再建されました。江戸時代に入ると、根津神社は天台宗の医王山正運寺昌泉院が神宮寺として管理し、根津大権現としての地位を確立しました。
万治年間(1658年-1661年)に、根津神社は現在の文京区立本郷図書館周辺(元根津)に遷座され、その後も発展を続けました。根津神社が現在の姿を整えたのは、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の時代、宝永3年(1706年)です。当時、綱吉は嗣子がいなかったため、甥の綱豊を世嗣に定め、根津権現を産土神として崇拝しました。
綱吉の甥である綱豊(後の家宣)は、根津権現を産土神として敬い、自身の江戸城移転に際して藩邸跡地を献納し、社殿を造営しました。この時期、根津権現は徳川将軍家から深い崇敬を受けており、例祭では江戸城内に神輿が入ることが許されるなど、その重要性が高まりました。
しかし、第7代将軍家継の死後、徳川吉宗が第8代将軍に就任すると、享保の改革の一環として例祭は公営から民営に切り替えられ、地味なものとなりました。
明治維新に伴う神仏分離と廃仏毀釈の影響で、根津神社も大きな変革を迎えました。山王神道に基づく祭祀は廃止され、国家神道に基づく新たな信仰形式が導入されました。本殿には須佐之男命、大山咋神、八幡神が祀られ、相殿には大国主神と菅原道真公が奉祀される形に改組されました。
明治21年(1888年)には、帝国大学の移転に伴い、江戸時代から門前に形成されていた根津遊廓が廃され、江東区の洲崎遊廓へと移転されました。これにより、神社周辺の風景も大きく変化しました。
根津神社の社殿は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉によって造営されました。この社殿は、権現造りと呼ばれる形式で、本殿・幣殿・拝殿が一体化された独特の構造を持っています。その重厚で美しい建築様式は、当時の権力者の威厳を感じさせるものです。
乙女稲荷神社は、倉稲魂命を祭神としています。この神社は、根津神社が現在の地に遷座された際、境内西側の傾斜面(つつじが岡)の中腹に洞を穿つ形で祀られました。その神秘的な佇まいは、多くの参拝者に親しまれています。
駒込稲荷神社は、伊弉諾命、伊弉冊命、倉稲魂命、級長津彦命、級長戸辺命を祭神として祀っています。この神社は寛文元年(1661年)に鎮座し、元々は甲府藩邸時代の守り神として祀られていました。本殿の遷座に伴い、現在は末社として根津神社の一部を形成しています。また、浜離宮内にあった稲荷神社の分祀元でもあります。
徳川家宣胞衣塚は、根津神社が現在の地に遷座される前、甲府藩邸時代に徳川綱豊(後の6代将軍家宣)が胎児を包んだ膜と胎盤(胞衣)を埋めた場所に建てられた塚です。歴史的な価値があり、訪れる人々に徳川家との深いつながりを感じさせます。
塞大神碑は、元々本郷追分(現在の東京大学農学部前の中山道と日光御成街道の分岐路)に祀られていた道祖神を移設したものです。この碑は、かつての街道の風情を今に伝えています。
家宣の産湯井戸は、徳川家宣が生まれた際に使用された産湯の井戸です。この井戸は非公開ですが、その存在自体が根津神社の歴史的な深みを象徴しています。
境内には、庚申塔が六基設置されています。これらの塔は、かつて近隣の町の辻にあったものが道路拡幅などの理由で撤去され、根津神社が引き取ったものです。それぞれの塔には、地域の歴史や人々の信仰が刻まれています。
つつじ園は、旧藩邸時代に徳川家宣が植えたものが最初です。現在も根津神社の境内でつつじが栽培されており、春から初夏にかけては一般開放され、色とりどりのつつじが咲き誇ります。この時期には「つつじまつり」も開催され、多くの観光客が訪れます。
2021年(令和3年)に閉店した旅館「水月ホテル鷗外荘」(台東区池之端)にあった建物が、根津神社に移築されることになりました。この建物は、文豪・森鷗外が最初の妻である赤松登志子と共に1889年5月から住んでいた邸宅で、1890年11月に文京区に転居するまで居住していたものです。1946年(昭和21年)に旅館の創業者が隣接する旧邸を買い取り、その後、根津神社の総代会の全会一致で移築が決定しました。2022年10月3日からは、根津神社境内東側への移設が検討されています。
根津神社では、1月の初詣や2月の節分、4月から5月にかけてのつつじまつり、9月の例大祭など、年間を通じて多彩な祭事が行われています。特に、つつじまつりは春の風物詩として広く知られています。
根津神社には以下の重要文化財に指定された建造物が存在します。
根津神社には、次の重要文化財に指定された工芸品が所蔵されています。
根津神社には文京区指定文化財も数多くあります。
正徳4年(1714年)の遷宮記念の大祭(天下祭、宝永祭)において奉納された神輿は、特に注目されます。神輿の巡行に際して、獅子が行列を先導する姿は壮観です。