寛永寺の創建と伽藍整備
寛永寺は天海を開山とし、徳川家の祈祷寺として江戸に新たに建立されました。徳川家康・秀忠・家光の3代将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸城の鬼門の方角を憂慮し、そのことを知った秀忠は元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えました。3代将軍徳川家光の時代、寛永2年(1625年)に本坊が建立され、これが寛永寺の創立年とされています。
天海は、寛永寺を日光東照宮の「東の守り」として位置づけ、江戸の平和と安寧を祈願しました。彼の構想により、寛永寺は江戸の北東(鬼門)に位置し、江戸城を守護する意味も持つようになりました。
寛永寺の伽藍は延暦寺の様式に準じて造営され、寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが建てられました。清水観音堂・五重塔が寛永8年(1631年)に完成し、根本中堂は5代将軍徳川綱吉の時代に建立されました。根本中堂と護国寺、根本中堂と浅草寺を結ぶ線は一直線につながり、根本中堂は日光の表参道の延長線上に存在しています。
寛永寺と増上寺
寛永寺は徳川将軍家の祈祷寺として栄えましたが、創建当初は徳川家の菩提寺ではありませんでした。徳川家の菩提寺は芝の増上寺(浄土宗寺院)で、秀忠の眠る場所でした。しかし、家光は天海に帰依し、自身の葬儀は寛永寺で行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すよう遺言しました。その後、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営され、幕末まで続きました。
徳川家の菩提寺としての寛永寺
寛永寺は、徳川家の菩提寺として多くの将軍がここに葬られました。初代将軍・徳川家康の霊廟が日光東照宮にあり、二代将軍・徳川秀忠は駿河の久能山に葬られましたが、三代将軍・徳川家光以降の将軍は寛永寺と増上寺に分かれて葬られました。寛永寺に葬られた将軍には、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定が含まれます。
輪王寺宮
寛永寺では3世貫主の守澄法親王以降、幕末までの歴代住職には法親王が就任しました。法親王は天台座主を兼ね、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌する「三山管領宮」として尊称され、絶大な宗教的権威を持っていました。輪王寺宮は水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式を誇り、西国で倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を擁立するという安全装置の役割を果たしていました。
衰退と復興
江戸時代後期、寛永寺は最盛期には寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、36か院の子院がありました。現在の上野公園のほぼ全域が当時の境内であり、さらにその2倍の面積を誇っていました。しかし、幕末の慶応4年(1868年)に彰義隊の戦(上野戦争)で主要な堂宇が焼失し、残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などのみとなりました。明治維新後、寺領は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定され、廃寺状態に追い込まれましたが、明治8年(1875年)に再発足しました。江戸時代の境内地だった場所は、上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌を遂げました。
霊廟の破壊と復元
寛永寺にあった将軍霊廟の多くは、幕末の戦乱や太平洋戦争の空襲によって破壊されました。特に1868年の上野戦争(戊辰戦争の一部)では、寛永寺が戦場となり、多くの建物が焼失しました。その後、将軍家の霊廟は東京や日光に移され、現存する寛永寺の建物はごくわずかです。ただし、近年では復元作業が進められており、寛永寺の歴史的価値を後世に伝える取り組みが続いています。
寛永寺の伽藍
本堂(根本中堂)
寛永寺の本堂である根本中堂は、東京芸術大学音楽学部の裏手に位置しています。上野公園の賑やかな清水堂や弁天堂に比べ、根本中堂周辺は訪れる人も少なく、静かな雰囲気が漂います。現在の本堂は、明治12年(1879年)に寛永寺の子院・大慈院があった敷地に、川越喜多院の本地堂を移築したもので、元々の寛永寺本来の建物ではありません。本堂の内陣には秘仏の薬師三尊像が安置されていますが、堂内は非公開です。
書院
本堂の裏手には書院があり、ここには徳川慶喜が水戸退去前に約2か月間蟄居していた部屋(葵の間、蟄居の間)が保存されています。こちらも非公開となっています。
旧本坊表門(黒門)
通称「黒門」と呼ばれる旧本坊表門は、重要文化財に指定されています。この門は東京国立博物館の東側、輪王寺にあります。寛永年間の建造物で、元々は東京国立博物館の正門の位置にありました。
清水観音堂
清水観音堂は、上野公園内の西郷隆盛銅像の近くに位置し、重要文化財に指定されています。寛永8年(1631年)に建築され、千手観音を祀るこの堂は、京都の清水寺本堂と同様の懸造建築が特徴です。当初は摺鉢山古墳の位置にありましたが、後に現在地に移築されました。
弁天堂
弁天堂は、不忍池の弁天島(中之島)に位置しており、天海が竹生島の宝厳寺の弁才天を勧請して建立したものです。島は常陸下館藩主・水谷勝隆が築いたもので、最初は橋がなく、舟で参詣されていました。元々の建物は入母屋造でしたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造の八角堂として再建されました。
旧寛永寺五重塔
旧寛永寺五重塔は、寛永8年(1631年)に初代の塔が建立されましたが、寛永16年(1639年)に焼失し、同年中に下総古河城主の土井利勝により再建されました。この塔は現在、恩賜上野動物園内に位置しており、1958年に東京都に寄付されました。塔の初重には釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏が安置されていましたが、これらは東京国立博物館に寄託されています。
上野東照宮
上野東照宮は、その豪華さや由来から、三大(もしくは四大)東照宮の一つに数えられることが多いです(ただし、これは自称ではありません)。正式名称は東照宮ですが、他の東照宮と区別するために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれています。別名として「三処権現」とも呼ばれることもあります。
時の鐘
時の鐘は上野公園内の精養軒近くにある鐘楼です。現在ある鐘は天明7年(1787年)の作です。
大仏山パゴダ
大仏山パゴダは時の鐘の近くにあり、昭和42年(1967年)に建立されました。元々は上野東照宮本地堂の本尊であった薬師三尊像(江戸時代初期)が祀られています。
上野大仏
上野大仏は寛永8年(1631年)に堀直寄の寄進で最初に造られました。以降、地震や火災に見舞われながらも再建が繰り返され、かつては像高約6メートルの釈迦如来坐像でしたが、1923年(大正12年)の関東大震災で頭部が落下し、現在は顔の部分のみが大仏山パゴダの脇に保存されています。顔面部分は「これ以上落ちない」という意味で受験生の間で「合格大仏」として祈願の対象となっています。
寛永寺の旧伽藍と歴史
旧伽藍の配置
かつて、現在の上野公園全域が寛永寺の境内でした。松坂屋上野店付近から上野公園入口付近の道は「広小路」と称されており、これは将軍が寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に参詣するための参道で、防火のために道幅を広げていました。上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」という橋があり、これが寺の正面入口でした。
上野公園内の大噴水から東京国立博物館方面に向かう道が、かつての参道で、文殊楼、法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂、本坊などが配置されていました。また、境内には清水観音堂、五重塔、東照宮、不忍池の中島に建つ弁天堂などがありました。寛永寺には36の子院がありましたが、現在はその多くが姿を消しています。
江戸と比叡山の関係
天海は江戸と寛永寺の関係を、京都と比叡山の関係に重ねて構想していました。根本中堂、法華堂、常行堂などは比叡山延暦寺にも同名の建物があり、清水観音堂は京都の清水寺を模して建てられました。不忍池と中島の弁天堂は琵琶湖と竹生島宝厳寺の弁才天をモデルにしています。
かつて存在した建物
根本中堂
根本中堂は、元禄11年(1698年)に落慶し、現在の上野公園大噴水のあたりにありました。重層入母屋造で、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模の仏堂でした。
本坊
本坊は根本中堂の裏手にあり、現在の東京国立博物館の敷地に位置していました。正門のみが上野戦争で焼け残り、しばらくは博物館の正門として使用されていましたが、その後、博物館の東側の輪王寺に移築されています。
法華堂・常行堂
法華堂・常行堂は、入母屋造の同形の仏堂2棟が左右に並び、その間を屋根付きの高廊下でつないでいました。左右の堂の間には、比叡山延暦寺のように日吉山王社を祭る山王殿がありました。山王殿は寛永寺の鎮守社で、後に廃され、現在はその跡地に子育地蔵尊が祀られています。
多宝塔
多宝塔は現在の東京芸術大学の敷地にありました。入母屋造、銅瓦葺き、屋根の勾配が強く、正面の柱の間が大きいのが特徴です。
文殊楼
寛永寺の二天門(にてんもん)とも呼ばれた文殊楼は現在の東京芸術大学構内にありました。再建された際には入母屋造りの門として建てられ、寛永寺の正門として機能していました。
寛永寺の子院
現在、寛永寺には以下の19の子院があります。
本堂近隣の子院
- 真如院
- 寒松院
- 林光院
- 吉祥院
- 泉龍院
- 修禅院
- 現龍院
- 見明院
- 福聚院
- 本覚院
- 元光院
- 東漸院
- 覚成院
- 春性院
- 等覚院
これら15か院は東京国立博物館東側に位置しています。
本堂裏手の子院
- 養寿院
- 津梁院
東京芸術大学周辺の子院
- 円珠院(東京芸術大学音楽学部の西側)
- 護国院(東京芸術大学美術学部に隣接)
昭和2年(1927年)、護国院は東京市立第二中学校(現在の東京都立上野高等学校)の創立に際してその境内地の大半を譲渡しました。
徳川家霊廟
東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っています。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物でしたが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分が焼失しました。現在、以下の建造物が重要文化財に指定されています。
重要文化財指定の建造物
- 厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
- 常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔
渋沢家霊堂
渋沢家霊堂は、渋沢栄一の前妻・千代の17回忌にあわせて建てられたと伝えられています。霊堂は寛永寺霊園内にあり、通常は一般公開されていませんが、5名以上の団体に限り予約制で毎月3日間程度公開されています。また、台東区役所が主催する特別公開が毎年秋に1日だけ行われます。
寛永寺の文化財
寛永寺には多くの重要な文化財が存在しています。以下にその一部を紹介します。
重要文化財
- 清水堂(清水観音堂)
- 旧本坊表門(輪王寺所在)
- 厳有院霊廟(個人所有のものを含む)
- 勅額門
- 水盤舎
- 奥院唐門(銅造)
- 奥院宝塔(銅造)
- 附: 浚明院宝塔、文恭院宝塔(各石造)
- 常憲院霊廟(個人所有のものを含む)
- 勅額門
- 水盤舎
- 奥院唐門(銅造)
- 奥院宝塔(銅造)
- 附: 有徳院宝塔、孝恭院宝塔、温恭院宝塔、天璋院宝塔(各石造)
- 木造薬師如来及両脇侍立像 - 本堂(根本中堂)に安置する秘仏本尊の薬師三尊像で、平安時代の作です。一般拝観はできず、檀家相手に夏場に1日だけ開扉されます。2006年には東京国立博物館での特別展で一般公開されました。
- 絹本著色両界曼荼羅図 - 東京国立博物館に寄託。
- 天海版木活字 - 開山の天海が刊行した「天海版一切経」の印刷に使われたもので、2003年に重要文化財に指定されました。
- 旧寛永寺五重塔 - 東京都所有で、恩賜上野動物園構内に所在しています。
登録有形文化財
- 渋沢家霊堂 - 1898年建立
- 根本中堂
- 葵の間
交通アクセス
JR山手線・京浜東北線「上野駅」公園口より徒歩5分。東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」7番出口より徒歩8分。京成線「京成上野駅」より徒歩8分。
近代の変遷と現在
寛永寺は明治維新後の廃仏毀釈でその多くの伽藍を失いました。残された伽藍も焼失や移築を経て、今日の姿に至っています。現在、寛永寺の根本中堂や本坊の跡地は、上野公園の一部として一般に開放されています。