不忍池は、東京都台東区の上野恩賜公園内に位置する天然の池です。公園の南端にあり、周囲は約2km、全体の面積は約11万平方メートルです。不忍池は、その中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配置し、池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれています。これらの部分は、一面がハスで覆われる蓮池、ボートを楽しむことができるボート池、上野動物園内に位置しカワウが繁殖している鵜の池です。
名前 | 面積(千m2) | 平均水深(cm) | 水量(千m3) |
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蓮池 | 55 | 84 | 46 |
ボート池 | 30 | 86 | 26 |
鵜の池 | 25 | 92 | 23 |
不忍池の名前は、弁天島に建つ石碑によれば、かつての地名「忍ヶ丘(しのぶがおか)」から由来しています。これは、上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間の地名であったとされています。他の説としては、池の周囲に笹が多く茂っていたことから「篠輪津(しのわづ)」が転じて不忍になったという説や、ここで男女が忍んで逢っていたからという説もあります。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていました。
かつて、旧石神井川が武蔵野台地の東端を割って谷を作り、海ぞいの低地へと注ぎ出ていた開口部に不忍池が位置していました。縄文海進期には東京湾の入り江だったと考えられ、その後、海岸線の後退とともに取り残され、紀元数世紀頃には池になったとされています。江戸時代には池から忍川が東流し、隅田川へと繋がっていました。
1625年、江戸幕府は寛永寺を建立し、その際に不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえて弁天島を築きました。弁天堂は島に建設され、1672年には弁天島から東に向かって石橋が架けられ、徒歩で渡れるようになりました。
明治時代初期までの不忍池の形は現在とは異なっており、特に池の北側は広かったとされています。1875年には不忍池も上野公園に編入されましたが、1884年に競馬場の建設に伴い池の一部が埋め立てられ、現在の形に近い形が出来上がりました。さらに1929年には築堤工事により池が4つに分割され、1931年には貸しボートの営業が開始されました。
不忍池は多種多様な鳥類が見られる場所として知られており、特にカモ類の飛来地として有名です。近年では、ユリカモメやセグロカモメなどの鳥類も多く飛来しています。また、池ではバン、カイツブリ、カワウ、カルガモなどの水鳥が繁殖しており、上野動物園の一部として扱われるカワウの島も存在します。カワウは昭和30年代に動物園が飼育していたものが池に放たれ、現在も繁殖しています。
不忍池には多くの外来魚が生息しており、カムルチー、タウナギ、ティラピアなどが見られます。在来の水生動物としては、フナ、モツゴ、ドジョウ、ヌマエビ、テナガエビなどが生息しています。特に鯉が多く見られるのも特徴です。
不忍池の蓮池では、毎年夏になるとハスが一面に繁殖し、池の南部をほぼ埋め尽くす状況になります。江戸時代には色とりどりのハスが植えられていたと言われていますが、現在では桃色のジバスと白の明鏡蓮の2種類のみが見られます。秋には白いアシが池一面に広がります。
2006年には不忍池でワニガメが発見され、自然繁殖の可能性が指摘されました。この事件以降、ボート池周辺にはカミツキガメやワニガメの危険性を訴えるポスターが掲示され、周囲が網で覆われるようになりました。
不忍池は多くの文学作品の舞台ともなっており、以下のような作品に登場します:
不忍池の中央に位置する弁天島には、多くのユニークな石碑があります。以下は、そのいくつかです:
周辺には駅伝の碑(2002年、財団法人日本陸上競技連盟ほか)もあります。
不忍池周辺には以下の施設があります:
不忍池へのアクセス方法は以下の通りです: