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穴八幡宮

(あな はちまんぐう)

穴八幡宮は、東京都新宿区西早稲田二丁目に位置する神社です。商売繁盛や出世、開運、そして蟲封じのご利益があることで広く知られています。古くは「高田八幡宮」と呼ばれていましたが、現在は「穴八幡宮」の名で親しまれています。

歴史

穴八幡宮の歴史は長く、社伝によれば1062年(康平5年)、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったことに始まります。1636年(寛永13年)にはこの地に的場が設けられ、この八幡宮は守護神とされました。

穴の発見と神社の名前の由来

1641年(寛永18年)、社僧の良晶が宮守の庵を建てるために南側の山裾を切り開いていた際、偶然にも横穴が見つかりました。この横穴から金銅の御神像が現れたため、これを「芽出度い」と喜び、以後「穴八幡宮」と称されるようになったと言われています。この逸話は3代将軍徳川家光にも伝わり、彼はこの神社を幕府の祈願所、そして城北の総鎮護としました。

江戸時代の信仰と流鏑馬

歴代将軍たちもたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のために流鏑馬を奉納しました。その後も、世嗣誕生の際や厄除け祈願として流鏑馬が奉納され続け、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には、1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)の誕生を祝う流鏑馬の様子が描かれています。

また、江戸時代の庶民の間でも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷が有名でした。1879年(明治12年)には、皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行われています。

戦後の復興

1945年(昭和20年)の東京大空襲により、穴八幡宮の多くの建物が焼失しました。その後、1961年(昭和36年)には御鎮座900年を記念して本殿再建工事が開始され、1989年(平成元年)には幣殿や拝殿の再建工事が行われました。1998年(平成10年)には隨神門が室町時代の様式で再建され、現在も境内全域の再建が進められています。

一陽来復のお守り

穴八幡宮は冬至の「一陽来復」のお守りでも有名です。このお守りは毎年冬至の日から翌年の節分の日までの期間に受け取ることができます。特に冬至の日は午前5時から特別に配布が行われ、毎年多くの参拝者が早朝から訪れます。近年ではお守りを求める待機列が年々拡大しているため、2022年には穴八幡宮からテント設営など非常識な行為を行わないよう呼びかけがありました。

現在の状況と文化的背景

現在、穴八幡宮は旧別当の放生寺と日本キリスト教団早稲田教会と隣接しており、神道、仏教、キリスト教が街の一角で共存している珍しい状態が続いています。また、作家の五木寛之の著作には、彼が早稲田大学第一文学部に入学したばかりの頃、穴八幡の床下で寝ていて追い出されたという記述が残されています。

文化財

布袋像の水鉢

穴八幡宮にある布袋像の水鉢は、新宿区指定有形文化財(工芸品)に指定されています。1649年(慶安2年)に造立され、区内最古の水鉢として知られています。この水鉢はもともと江戸城吹上御苑に置かれていましたが、徳川家光によって奉納されたものです。

高田馬場の流鏑馬

高田馬場の流鏑馬は新宿区指定無形民俗文化財に指定されています。この伝統行事は8代将軍徳川吉宗が奉納したことに始まりました。明治維新後、一時期中断されていましたが、1934年(昭和9年)に皇太子(明仁上皇)の誕生を祝うために再興されました。戦後は1979年(昭和54年)から毎年スポーツの日に都立戸山公園を会場として行われています。

氏子地域

穴八幡宮の氏子地域は以下の通りです:

交通アクセス

電車でのアクセス

穴八幡宮へは、東京メトロ東西線早稲田駅2番出口から徒歩4分でアクセスできます。駅の案内には「穴八幡方面出口」と記されています。

バスでのアクセス

また、都営バス学02・早77・早81の各系統で馬場下町停留所で下車することも可能です。

Information

名称
穴八幡宮
(あな はちまんぐう)

新宿

東京都