林芙美子記念館は、東京都新宿区にある文学館で、林芙美子が晩年を過ごした家を改築して公開されています。管理・運営は公益財団法人新宿未来創造財団が行っています。この記念館は、林芙美子の作品や生活を知るための貴重な場所であり、多くの文学ファンや観光客が訪れます。
林芙美子は1941年(昭和16年)8月から1951年(昭和26年)6月28日に亡くなるまで、この家に住んでいました。彼女の住んでいた家の一部は記念館として整備され、公開されています。旧家部分への立ち入りは制限されていますが、林芙美子が生前に生活していた茶の間や書斎、小間などの様子を庭から垣間見ることができます。
また、彼女の夫で画家だった林緑敏の旧アトリエは展示室として使用されており、こちらは訪問者が自由に入室できるようになっています。
林芙美子(1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家であり、彼女の作品は日本の文学史において重要な位置を占めています。特に、自伝的小説『放浪記』(1928年)で一躍注目を浴び、その詩情豊かな文体で多くの読者を魅了しました。林芙美子は庶民の生活を共感を込めて描写し、その作風は今も多くの人々に愛されています。
林芙美子は、幼少期からの不遇な生活を経験し、これが彼女の作品に大きな影響を与えました。彼女は、山口県下関市で生まれ、尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)を卒業しました。生まれながらにして困難な状況に置かれ、母親と共に日本各地を転々としながら、露天商やカフェの女給など、様々な職業を経験しました。
その後、『放浪記』がベストセラーとなり、彼女の名前は一躍全国に広まりました。その後も、『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)など、多くの名作を世に送り出しました。
1916年、13歳の時に林芙美子は広島県尾道市に移り住みました。ここでの生活が、彼女の文学的才能を開花させる契機となりました。尾道での多感な6年間、彼女は詩や短歌を投稿し、その作品が地元の新聞に掲載されるようになります。これが後の作家としての彼女の礎となりました。
尾道での生活の中で、彼女は初恋を経験しましたが、その恋は実らず、彼女を文学の世界へと深く引き込む結果となりました。この初恋の破局が、彼女の作品に反映されることとなり、後の作品においても、悲恋や切ない感情が描かれることが多くなります。
1922年、林芙美子は東京へと移り住みましたが、ここでも彼女は数多くの職業を転々としながら、厳しい生活を送っていました。最初は小説家の住み込み女中として働きましたが、その後も様々な仕事を経験しながら、次第に文学社会へと足を踏み入れていきます。
1924年、20歳になった林芙美子は再び東京へ戻り、ここで本格的に文学活動を開始しました。彼女の作品は徐々に評価されるようになり、ついには日本を代表する作家となりました。
林芙美子は、戦後も多くの作品を発表し続け、特に新聞小説や短編作品で大きな成功を収めました。しかし、1951年に心臓麻痺で急逝し、その短い生涯を閉じました。彼女の死後も、その作品は多くの読者に読み継がれ、今もなお日本文学の一つの頂点を築いています。
林芙美子記念館は、彼女の生涯と作品を振り返る場所であり、訪れる人々に彼女の文学とその時代を伝える貴重な施設です。
所在地:〒161-0035 東京都新宿区中井2-20-1
開館時間:10:00 - 16:30(入館は16:00まで)
休館日:月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)、年末年始(12月29日 - 1月3日)
入館料: