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江古田の森公園

(えごた もり こうえん)

江古田の森公園(えごたのもりこうえん)は、東京都中野区江古田に位置する中野区立の防災公園です。かつての国立病院跡地の豊富な既存樹林を活かし、隣接する保健福祉施設との調和を目指して整備されています。公園の面積は約6万平方メートルで、シンボルはハナミズキです。四季折々の自然を楽しむことができ、地域住民の憩いの場として親しまれています。

公園の歴史と背景

江古田の森公園は、2007年に開園し、隣接する保健福祉施設や看護学校とともに「江古田の森」として一体的に整備されました。このエリア全体は広域避難場所にも指定されています。江古田の森公園の敷地は、三方を江古田川に囲まれた標高30メートル前後の舌状台地で、寺山台地と呼ばれています。江古田遺跡としても知られ、縄文時代中期の集落跡や中世の寺院跡などが発見されています。

江古田の森公園の歴史

寺山台地は、近世には将軍の鷹狩り場とされ、明治時代には茶や桑の生産地として栄えていました。1919年に東京市療養所が設置され、のちに国立療養所中野病院として結核患者の養生施設として機能していました。この病院は1993年に統合・廃止され、その跡地の一部が江古田の森公園として整備されました。また、以前に江古田川沿いの一部は北江古田公園として先行して開園していましたが、2007年に全体が江古田の森公園として統合されました。

公園施設の紹介

ハナミズキの丘

江古田の森公園のシンボルであるハナミズキが植えられた「ハナミズキの丘」は、1915年に米国から贈られたハナミズキの苗木の子孫を植えたものです。この丘は、かつて国立中野療養所が新病棟建設時に廃棄した土が積み上げられた跡地でもあります。丘には学習室があり、災害時には医療活動支援室としても使用される他、車椅子対応トイレも併設されています。

里山の樹林

公園の北部には、里山の樹林が広がり、シンボルツリーのアオギリが生えています。樹林近くの川辺には、地名の由来とされるエゴノキも見られ、5月には白い花を咲かせます。里山の樹林には防災用井戸もあり、飲み水にはなりませんが生活用水として利用できます。樹林とハナミズキの丘の間には、森の入り口広場、森の小広場、草っぱら広場などがあり、東京の街路樹の原木とされるイチョウやシダレヤナギなどが見られます。

ビオトープ

公園の中央部にはビオトープがあり、小川と池が自然環境を再現しています。2008年から3年間、ビオトープの小川でホタルの自然繁殖を試みましたが、繁殖は確認できませんでした。また、ビオトープの水は時折枯れることがあり、2020年5月にも水が涸れたことが報告されています。

芝生広場と防災施設

芝生広場は公園の入り口近くにあり、かまどベンチや耐震性貯水槽、応急給水槽などの防災施設が設置されています。これらの施設は、災害時に炊き出しや飲み水の供給、仮設トイレとして利用できるように設計されています。また、広場には車椅子対応トイレも完備されています。

保存樹林と調節池

台地の東側には保存樹林が広がり、金網で囲まれているため一般の立ち入りはできません。また、公園の東側には調節池があり、大雨時には江古田川の増水を抑える役割を果たしています。調節池は1987年に建設され、広場として普段は利用されていますが、大雨時には川の水が流れ込んで貯水され、後に排水されます。

ランニングコース

江古田の森公園には、一周約1,200メートルのランニングコースが整備されており、100メートルごとに距離表示があります。また、500メートルのジョギングコースもあり、適度なアップダウンがあるため運動に適しています。

歴史

古代の寺山台地と江古田遺跡

江古田の森公園が位置する寺山台地は、縄文土器が大量に採取されることで知られ、東京都遺跡地図には「中野区No.27遺跡(江古田遺跡)」として登録されています。2020年現在、この遺跡は「江古田(本田山・寺山・北江古田・寺山北部・寺山南部)遺跡」と呼ばれています。

江古田遺跡の発掘調査は5回行われ、1985年からは台地東側の低地(旧北江古田公園部分)で調整池建設に伴う発掘調査が実施されました。この調査では縄文土器や漆塗り耳飾り、木胎漆器などの豊富な遺物が出土し、北江古田遺跡として報告されています。その後、寺山台地上で行われた発掘調査は江古田遺跡として1から4までの番号が振られています。

旧石器時代の発見

江古田遺跡からは旧石器時代の石器も出土しており、第4次発掘調査では2万年以上前の土層から黒曜石を中心とする石器の剥片が発掘されました。これらの剥片は、旧石器時代の人々が当地で石器を製作していた証拠です。黒曜石は、当地周辺では採石できないため、箱根・伊豆・信州などの遠方から運ばれたと考えられます。

縄文時代の集落と生業

公園の敷地では、縄文時代の遺物や遺構が多数出土しており、特に縄文時代中期には公園の台地上に集落が広がっていたと推測されています。公園東部の川沿いには生業の場があったと考えられ、北江古田遺跡では縄文早期から後期にわたる低湿地遺跡として、多くの貴重な遺物が発見されています。

1985年の発掘調査では、縄文中期の貯蔵穴や祭祀に使われた土器などが発掘されました。これらの発見から、当地は縄文時代の人々の生業の場であったと理解され、台地上の江古田遺跡本体に大規模集落が存在した可能性が高まっています。

中世の寺院と居館

寺院「江古寺」と江古田原合戦

中世には、当地に「江古寺」という寺院があったとされ、豊島氏の勢力圏の一部と考えられています。文明9年(1477年)には、太田道灌の軍勢が当地で豊島氏と戦い、これを破りました。この戦いは「江古田原合戦」と呼ばれ、合戦の際に江古寺は焼失したと伝えられています。

また、2003~2004年に行われた江古田遺跡第2次発掘調査では、中世の工法で造成・整地された平坦面や、掘立柱建物跡、焼き場とみられる土坑などが検出されました。これらの遺構から、中世寺院の存在が推測されています。

江古田城の伝承と幻

寺山台地にはかつて「江古田城(本田城、本多山城とも)」があったという伝承もありますが、実際の史実として確認されていないため、「幻の江古田城」とも呼ばれています。

寺山台地と小川屋敷

寺山台地のあたりには「小川屋敷」という高荘の屋敷があったとされます。鎌倉初期に敗亡した幕府重臣、和田義盛の子孫が当地に住み着いたとされ、その子孫が代々「小太郎」を名乗り続けたと伝えられています。

寺山の時代

江戸時代の寺山と御林

江戸時代には、当地は「寺山」や「御林」と呼ばれ、将軍や大名の鷹狩場として利用されていました。東福寺が元禄9年に代官へ提出した願書には、当地にかつて寺があったことが記されています。この寺が江古寺であるとされています。

明治の初めには、寺山は江古田村の字として存在していました。広大な台地に家はなく、中央は畑、東部は茶園で、周辺は雑木林に囲まれた静かな武蔵野の丘陵でした。野生動物も多く生息していたといわれています。

結核療養所の時代

東京市療養所の設立

1920年、寺山に東京市療養所が開設されました。この施設は肺結核の療養所として、サナトリウムの役割を果たしていました。東京近郊の中でも空気と水が最も良いという理由で当地が選ばれたとされています。

アクセス

公園の所在地は東京都中野区江古田3丁目14番で、バスや電車でのアクセスが可能です。

バス:

中野駅北口から「江古田の森行き」で「江古田の森」下車すぐ、または「江古田駅行き」で「江古田地域センター」下車徒歩3分です。

電車:

都営地下鉄大江戸線「新江古田駅」から徒歩10分、西武新宿線「沼袋駅」から徒歩20分です。

Information

名称
江古田の森公園
(えごた もり こうえん)

中野・荻窪

東京都