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法光山 妙正寺

(ほうこうさん みょうしょうじ)

妙正寺は、東京都杉並区清水に位置する日蓮宗の寺院で、山号は法光山と称します。この寺院は、近隣にある妙正寺池(妙正寺公園)やその水源である妙正寺川の名の由来ともなっています。旧本山は中山法華経寺であり、達師法縁の寺院です。

妙正寺の歴史

創建と歴史的背景

妙正寺の歴史は、文和元年(1352年)に遡ります。この年、下総国(現在の千葉県)の中山法華経寺第3世・日祐上人によって、妙正寺池のほとりに堂が建てられました。ここで、法華経の守護神である天照大神、八幡大神、春日大神などの三十番神が勧進され、妙正寺の始まりとされています。その後、正保3年(1646年)に社殿が再建され、慶安2年(1649年)には徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄り、葵の紋幕と朱印地・五石を賜りました。この出来事により、妙正寺は「御朱印寺」として広く知られるようになりました。

本堂と三十番神堂の再建

本堂は天保元年(1830年)に火災により焼失しましたが、天保3年(1832年)に再建されました。その後、昭和6年(1931年)に改築され、現在に至っています。また、三十番神堂は安政3年(1856年)の大暴風で倒壊しましたが、安政6年(1859年)に再建されました。現在の鐘楼は昭和38年(1963年)に建立されたものです。

妙正寺に祀られる神々と文化財

妙正寺には、鬼子母神像や弁財天像など、信仰の対象となる多くの像が祀られています。特に鬼子母神像は、「生毛鬼子母神」と称され、安産の神として広く信仰されています。この像は、かつて江戸城大奥にありましたが、天保改革の際に妙正寺に移され、以後、地域の人々に親しまれてきました。弁財天像は、妙正寺池の弁天島に祀られていたもので、今も多くの参拝者に信仰されています。

さらに、妙正寺には鎌倉期から室町期にかけての板碑が15基残されており、これらは妙正寺池周辺の古い村落の歴史を物語る貴重な文化財となっています。

史跡・施設

本因坊知伯の墓

妙正寺の境内には、江戸時代の囲碁棋士で後に6世本因坊となった本因坊知伯の墓があります。この墓は1983年に杉並区指定史跡文化財に指定されています。

境内の施設

本堂

妙正寺の本堂は、天保元年(1830年)の火災で焼失しましたが、天保3年(1832年)に再建され、その後、昭和6年(1931年)に改築されました。現在の本堂は、その歴史を感じさせる佇まいで、多くの参拝者を迎えています。

妙正寺会館

妙正寺会館は、閑静な住宅街に位置し、周囲の豊かな緑に囲まれています。この環境の中で、静かで落ち着いたご葬儀が行われています。

客殿

妙正寺の客殿は、立教開宗750年を記念して、平成13年に新築されました。ここでは、さまざまな法要や儀式が執り行われています。

三十番神堂

三十番神堂は、神仏習合の信仰に基づき、天照大神・八幡大神・春日大神などの三十柱の神々を勧請し、国家や国民を守護するために祀られています。安政3年(1856年)の大暴風で倒壊しましたが、安政6年(1859年)に再建され、今日までその姿を保っています。

鐘楼堂

現在の鐘楼堂は、昭和38年(1963年)に建て替えられたもので、以前の鐘は戦時中に供出されました。新たな鐘楼堂は、静かな環境の中で、訪れる人々に安らぎを提供しています。

水盤舎

妙正寺の水盤舎は、訪れる参拝者が手を清めるための場所として設けられており、境内の美しい景観と調和しています。

正門と西門

妙正寺の正門は、宗祖大聖人七百遠忌を記念して、昭和56年に新築されました。また、西門も立派な造りで、参拝者を迎え入れる重要な役割を果たしています。

永代供養墓

永代供養墓は、妙正寺の境内に設けられており、ここでは多くの人々が永遠の安らぎを求めて供養されています。

正一位稲荷と瘡守稲荷

妙正寺には、正一位稲荷と瘡守(かさもり)稲荷という二つの稲荷神社もあります。正一位稲荷は、五穀豊穣を祈願するお稲荷様で、その名が示す通り、神社の最高位に位置付けられています。瘡守稲荷は、病気平癒を祈願するお稲荷様で、特に独自の祈願方法が知られています。願掛けの際には土で作った団子を供え、病気が治癒した時には米の粉で作った本物の団子をお供えして、お礼参りをするという風習があります。

アクセス

妙正寺へのアクセスは、西武新宿線・井荻駅から徒歩15分の距離にあります。井荻駅や荻窪駅からはバスの利用も可能です。拝観は日中の時間帯に限られており、無料で行えます。

Information

名称
法光山 妙正寺
(ほうこうさん みょうしょうじ)

中野・荻窪

東京都