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多宝山 成願寺

(たほうざん じょうがんじ)

成願寺は、東京都中野区本町二丁目に位置する曹洞宗の寺院です。山号は多宝山で、「中野長者」と称された鈴木九郎によって創建された歴史ある寺院です。

成願寺の歴史

成願寺の開基である鈴木九郎は、紀州出身で室町時代初期に当地に移り住みました。彼は武蔵国多摩郡中野郷から豊島郡角筈村にかけての土地を購入し、開拓を行い大いに財を成し、「中野長者」として知られるようになりました。

開基の経緯

鈴木九郎には小笹という一人娘がいましたが、18歳の若さで病死してしまいます。この出来事をきっかけに、九郎は残りの人生を仏門に捧げることを決意し、小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受けて出家し、名前を正蓮に改めました。そして、邸宅を寺院に改め、持仏堂を建立して娘の供養を行いました。この持仏堂が成願寺の前身である「正観寺」となりました。

寺号の変遷と移転

正観寺は江戸時代初期の寛永5年(1628年)に熊野神社と分離され、その後、中野区本町に移転して寺号を「成願寺」に改められました。幕末には新選組の近藤勇が家族を預けたことでも知られています。

開山像の発見とその意義

1972年(昭和47年)、成願寺の開山像の解体修理の際に内部から骨が見つかり、考古学者鈴木尚の鑑定によって、これらの骨が鈴木九郎、娘の小笹、およびその愛犬のものであると推定されました。これらの遺骨は、開山像と墓所、寺院内に分骨され、現在も供養されています。

成願寺の施設と史跡

本堂

本尊は鎌倉時代の釈迦牟尼佛如来像です。荘厳で落ち着いた雰囲気の中、歴史的な仏像が安置されています。

龍鳳閣(開山堂)

成願寺の開山堂で、成願寺の歴史を象徴する施設です。

圓通閣(百観音堂)

多くの観音像が安置されている堂で、静かな祈りの場として訪れる人々に親しまれています。

鈴木九郎の墓

中野長者と呼ばれた鈴木九郎の墓所は、成願寺の敷地内にあり、歴史的な価値が高いものです。

鍋島家の墓地

蓮池鍋島家の墓地で、蓮池藩は佐賀藩の支藩であったことから、その歴史的背景も感じられます。

たから第六天

山手通りを挟んだ反対側に所在する史跡で、成願寺と関連する神社です。

大達磨絵

成願寺に奉納されている大達磨絵は、訪れる人々の目を引く迫力ある作品です。

成願寺と地域社会

成願寺は、地域社会とのつながりを大切にしています。当寺院を母体として隣接して「中野たから幼稚園」を運営し、地域の教育にも貢献しています。

鈴木九郎の生涯

鈴木九郎(すずき くろう、建徳2年(1371年)頃 - 永享12年(1440年))は、室町時代の商人・僧侶であり、紀伊国の生まれです。現在の東京都中野区から新宿区西部(中野坂上から西新宿付近)を開拓し、商売で成功したことで「中野長者」と称されました。

伝説と九郎の信仰

伝説によると、九郎は浅草観音に立ち寄り、やせ馬を市で高く売れるように祈願しました。その際、貴重な宋銭の大観通宝が混ざっていればすべてを奉納すると誓い、誓い通りにすべて奉納しました。帰宅すると家は黄金で満ちあふれており、その感激から夫妻は故郷の熊野十二所権現を祀る神社を建立したと伝わっています。この神社が現在の十二社熊野神社です。

晩年と死去

九郎には小笹という一人娘がいましたが、18歳で病死しました。九郎はその供養のために持仏堂を建立し、寺号を「正観寺」として同じ境内には熊野神社も祀っていました。その後、永享12年(1440年)頃に65歳で死去し、彼の墓は江戸中期の享保年間に成願寺に改葬され、現在も同寺にあります。

アクセス情報

成願寺は東京都中野区本町2-26-6にあります。最寄り駅は丸ノ内線・大江戸線「中野坂上駅」で、1番出口より徒歩5分(山手通り沿い)です。拝観は日中の時間帯のみで、無料でご覧いただけます。

Information

名称
多宝山 成願寺
(たほうざん じょうがんじ)

中野・荻窪

東京都