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観泉寺

(かんせんじ)

観泉寺は、東京都杉並区今川二丁目に位置する曹洞宗の寺院で、山号は宝珠山といいます。この寺は、戦国時代の名門大名である今川氏の菩提寺として知られており、歴史的にも文化的にも重要な役割を果たしています。境内には今川氏の累代の墓があり、これらは東京都の旧跡に指定されています。さらに、観泉寺は枝垂桜や紅葉の名所としても広く知られ、多くの参拝者や観光客が訪れます。

歴史と創建:今川氏との深い縁

観泉寺の歴史は1597年(慶長2年)にさかのぼります。当時、中野にある成願寺の住職・鉄叟雄鷟(てっそうゆうさく)が、多摩郡下井草(現・杉並区)に観音寺(かんのんじ)として創建しました。その後、1619年(元和5年)に大友義親が没し、義親の妻(今川範以の三女)が実家である今川家に戻り、剃髪して観音寺に仕えました。

1645年(正保2年)、彼女の弟である今川直房がこの地域の領主となり、観音寺を現在の上井草村に移転し、寺名を観泉寺と改めました。この際、直房は寺領を寄進し、伽藍を新たに建立しました。1649年(慶安2年)には幕府より観泉寺に朱印状が与えられ、10石の寺領に関する年貢・諸役が免除されることとなりました。

今川氏と観泉寺の結びつき

1662年(寛文2年)、今川直房は市谷田町にあった祖父・今川氏真とその母(吉良義安の娘)の墓を観泉寺に移し、氏真を観泉寺の開基としました。このようにして、観泉寺は今川家の菩提寺としての地位を確立しました。1763年には本堂などが焼失しましたが、翌1764年には再建され、現在に至るまで多くの人々に親しまれています。

今川家と杉並区今川

今川家は、室町時代や戦国時代に駿河国(現・静岡県)などを治めた大名として知られていますが、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたことをきっかけに没落しました。しかし、義元の子である今川氏真は徳川家康の庇護を受け、京や江戸で暮らし、1614年(慶長19年)に江戸で没しました。

その後、氏真の嫡孫である今川直房は、高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉に尽力しました。彼は1645年(正保2年)、徳川家光から現在の杉並区井草村を含む知行地を与えられました。この地は幕末まで今川家の所領として続き、その影響でこの地域は「今川」と呼ばれるようになりました。

壮大な歴史と広大な領地

直房が寄進した観泉寺の領地は、現在の杉並区善福寺一帯から環状八号線を超えて杉並区清水にまで及んでいました。また、青梅街道の交差点に残る「八丁」という地名は、観泉寺の塀がそのあたりまで届いていたことに由来します。さらに、青梅街道沿いの荻窪郵便局近くにある「薬王院」の場所も、かつては観泉寺の敷地内であり、ここで開かれていた寺子屋が現在の杉並区立桃井第一小学校の起源となっています。

自然豊かな境内

観泉寺の広い境内には、本堂や観音堂、宝塔などの由緒ある建物群が点在しており、錦鯉の泳ぐ池や樹齢80年を超える枝垂桜が見事です。また、竹林もあり、京都のような風情を求める人々が訪れることも少なくありません。しかし、拝観の際には節度ある態度でお参りをすることが求められます。

竹林と四季折々の風景

特に竹林の一帯は、夏でも涼しげで、訪れる人々に安らぎを与えてくれます。また、春には枝垂桜が、秋には紅葉が見事に彩られ、四季折々の風景が楽しめる場所です。

ライトアップと地域とのつながり

観泉寺の住職である田中法生さんは、家族を含めて祖父の代から四代続く桃井第一小学校の卒業生です。彼は「地域のお役に立てるなら」と2018年(平成30年)に始めた境内の日本庭園のライトアップや、町会と共催するお祭りなどを通じて、多くの地域住民と交流を深めています。これらのイベントには、近隣に住む多くの人々が足を運び、観泉寺は地域に根ざした存在として親しまれています。

史跡:今川氏累代の墓

観泉寺には、都旧跡に指定されている今川氏累代の墓があり、今川氏真以下歴代の領主が眠っています。この墓は、今川家の歴史を感じさせる貴重な史跡であり、多くの歴史愛好家や参拝者が訪れています。

施設とアクセス

観泉寺は、隣接する観泉寺幼稚園を運営しており、地域社会に貢献しています。アクセスは、西武新宿線・上井草駅から徒歩15分、または中央線の荻窪駅や西荻窪駅からバスを利用することができます。拝観は日中の時間帯のみで、無料で行うことができます。

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観泉寺
(かんせんじ)

中野・荻窪

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