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武相荘

(ぶあいそう)

白洲次郎・正子の旧邸宅

武相荘は、東京都町田市にある白洲次郎と白洲正子夫妻の旧邸宅です。現在、この邸宅は「旧白洲邸・武相荘」として記念館および資料館となり、一般に公開されています。白洲夫妻の暮らしや業績を偲ぶことができるこの場所は、多くの来訪者を魅了しています。

概要

武相荘は、白洲次郎と白洲正子夫妻の旧邸で、館長は白洲夫妻の長女である牧山桂子氏が務めています。「武相荘」という名前は、白洲次郎のユーモアに由来し、「武蔵の国」と「相模の国」の境に位置することと、「無愛想」を掛け合わせて名付けられました。敷地は約2,000坪にわたり、豊かな自然と静寂が感じられる場所です。

沿革

武相荘の歴史は、1942年(昭和17年)にさかのぼります。当時、白洲夫妻は空襲や食糧難を見越して農地付きの家を探していました。その結果、現在の東京都町田市にあたる鶴川村で農家を購入しました。この農家は使用人の親戚の紹介で見つけたもので、白洲次郎は当時、日本水産や帝国水産統制株式会社(現在のニチレイ)の役員を辞し、退職金をつぎ込んで購入しました。

購入時、家の状態は荒れていましたが、白洲夫妻は当初、東京市新宿区から通いながらゆっくり修理するつもりでした。しかし、戦況の悪化に伴い、1943年5月に正式に転居し、自給自足の農民生活を始めます。白洲次郎は「カントリージェントルマン」を自称し、中央の政争から距離を置き、地方で静かに暮らしつつ中央の情勢に目を配るという英国貴族的な考え方を実践しました。

武相荘での暮らし

1943年、白洲次郎は祖先伝来の品を預かることになり、能面や衣装を保護しました。また、1945年から2年間、東京大空襲で家を失った河上徹太郎夫妻を迎え入れ、武相荘で共に暮らしました。この同居がきっかけとなり、白洲正子は青山二郎や小林秀雄と知り合い、交流を深めました。正子は武相荘での暮らしを「鶴川日記」として記録し、1979年に書籍化されています。

白洲次郎の戦後の活躍

敗戦後、白洲次郎は吉田茂の要請を受けて、終戦連絡中央事務局の参与に就任し、GHQとの交渉や日本国憲法の制定、通商産業省(現在の経済産業省)の設立に尽力しました。その後、政界を退き、東北電力の会長などを務めました。一方、正子は骨董や随筆家としての活動を続け、夫妻は亡くなるまで武相荘を住まいとしました。

記念館としての武相荘

1985年に白洲次郎が、1998年に白洲正子が亡くなった後、2001年10月より武相荘は記念館・資料館として一般に公開されるようになりました。2002年11月には町田市の指定史跡に指定され、歴史的価値が認められました。

白洲夫妻の農家購入と移住

武相荘の歴史は、1942年(昭和17年)10月に遡ります。当時、白洲次郎・正子夫妻は、東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷)に農家を購入しました。数年前から、戦争による空襲や食糧難を予測した夫妻は、農地が付いた郊外の家を探していました。そして、使用人の親戚が鶴川村で駐在していた縁で、この農家を購入することになりました。当時、次郎氏は日本水産・帝国水産統制株式会社(後のニチレイ)の役員でしたが、全ての職を辞し、退職金を投入してこの農家を購入しました。家の内部は荒れていたため、最初は新宿区水道町(現在の東京都新宿区)にあった自宅から通いながら修理を進めました。しかし、戦況の悪化に伴い、1943年5月に正式に転居し、夫妻は自給自足の農民生活を始めました。当時、次郎氏は41歳、正子氏は33歳でした。

次郎氏の「カントリージェントルマン」としての生活

白洲次郎氏は「カントリージェントルマン」を自称し、中央の政争や喧噪から距離を置きながらも、地方に居住しつつ中央の情勢に目を光らせるという英国貴族のような生活を送りました。この考え方は、次郎氏がケンブリッジ大学留学時代に親友となった7世ストラトフォード伯爵ロバート・セシル・ビングの影響を受けたものでした。

戦時中の生活と終戦後の活動

1943年、次郎氏は梅若流の能面や衣装など、先祖伝来の品を預かることとなりました。そして、1945年から2年間、東京大空襲で家を失った河上徹太郎夫妻と同居し、深い親交を結びました。正子氏はこの経験をきっかけに青山二郎氏や小林秀雄氏と知り合い、後に『鶴川日記』という作品で武相荘での生活を描いています。この作品は「読売新聞」で1978年7月から2か月間連載され、その後、1979年に出版されました。

敗戦後、次郎氏は吉田茂氏の要請を受けて、終戦連絡中央事務局の参与に就任し、GHQとの交渉や日本国憲法の制定、通商産業省(現在の経済産業省)の設立に尽力しました。政界を引退後は、東北電力会長などを歴任しました。正子氏は骨董・随筆家としての活動を通じて、青山二郎氏や小林秀雄氏との交流を深め、夫妻は亡くなるまで武相荘で生活を送りました。次郎氏は1985年に、正子氏は1998年に亡くなりました。

展示内容

武相荘では、萱葺き屋根の母屋や納屋などが公開されており、次郎と正子の書斎や居間、家具、私物、写真などが展示されています。また、次郎が手作りした調度品や農機具も展示され、彼らの日常生活を感じ取ることができます。さらに、関連書籍や記念品の販売も行っており、事前に予約すれば喫茶や弁当も楽しめます。

開館時間と休館日

武相荘は、毎日10時から17時まで開館していますが、最終入館は16時半までです。月曜日は休館日ですが、祝日や振替休日にあたる場合は開館します。また、夏季や冬季には臨時の休館日も設けられます。

アクセス

武相荘は、東京都町田市能ヶ谷七丁目に位置しており、小田急小田原線鶴川駅から徒歩約15分でアクセスできます。バスを利用する場合、鶴川駅から「鶴川団地」行きや「真光寺公園」行きのバスに乗り、「平和台入口」バス停で降りるとすぐです。敷地内には駐車場も完備されています。

武相荘にまつわるエピソード

武相荘には、白洲次郎氏と正子氏にまつわる数々のエピソードが残されています。例えば、次郎氏は引っ越しに際して、第2次近衛内閣で司法大臣を務めた風見章氏に依頼し、「武相荘」と書かれた額を作成してもらい、それを居間に飾り、現在も使用されています。また、次郎氏が武相荘への移住を提案した際、正子氏から「次郎さんにお百姓さんが務まるかどうか、やってごらんなさいよ」と励まされたと伝えられています。さらに、次郎氏はサンフランシスコ講和条約での大役を終えた後も、「いま一番やりたいのは野良仕事だ」と周囲に漏らすほど、農民生活に馴染んでいました。

また、次郎氏は手先が器用で、臼を利用した新聞受けや道具箱、しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなどの日用品を自ら作成しており、これらの作品は現在も武相荘で見ることができます。特にガレージのブラシ入れの底には、英語で「Hope She will be MORE TIDY! 1979」と書かれており、これはおそらく正子氏に対する次郎氏の鬱憤を表現したものと考えられています。

メディアでの紹介

武相荘は、メディアでも度々紹介されています。特に有名なのは、1994年に日本テレビで放送された「たけし・さんまの世界超偉人100万人伝説」で、白洲次郎の伝説が取り上げられた時の映像です。また、2009年にはNHKで放送されたドラマ「白洲次郎」の舞台としても注目されました。

Information

名称
武相荘
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