土方歳三資料館は、東京都日野市に位置する私設資料館です。新選組副長であり、幕末の歴史に名を刻んだ土方歳三の生家跡に設立されたこの資料館は、土方歳三の兄の子孫が運営しており、歳三に関する貴重な資料が展示されています。
この資料館は、元々土方歳三が29歳で京都に上洛するまで過ごしていた土方家の屋敷を基にしています。1990年(平成2年)まで、その屋敷はほぼ当時のままの形で保存されていましたが、建て直しが行われた際に家の一部が資料館として開放されました。土方歳三の兄、土方喜六から5代目にあたる土方陽子によって、歳三の命日である1994年(平成6年)5月11日に正式に開館しました。
2005年(平成17年)の春、資料館は約3倍の広さに拡張され、新たな展示スペースが設けられました。これにより、従来展示できなかった貴重な資料も公開されるようになりました。また、2012年(平成24年)には、土方陽子の娘である愛(めぐみ)が2代目館長に就任し、資料館の運営を引き継いでいます。
資料館の入り口には、建て替え前の屋敷から残された大黒柱があり、これは歳三が相撲の稽古として張り手をかましたことで知られる柱です。また、庭には、歳三が17、8歳のころに「武人となりて名を天下に挙げん」と誓って植えた矢竹が現在も生い茂っています。これらの場所は、訪れる人々に土方歳三の生きた時代とその決意を思い起こさせます。
資料館では、土方歳三に関連する数々の貴重な遺品が展示されています。その中でも、特に注目すべきは以下の収集品です。
和泉守兼定は、日野市指定有形文化財であり、土方歳三が佩刀していた刀です。この刀は、京都守護職を務めていた松平容保から下賜されたとされる11代関兼定作の打刀であり、歳三の戦死後に土方家に戻されました。刀身は、歳三の命日である5月11日前後に期間限定で公開されることがあり、拵(こしらえ)は常設展示されています。
『豊玉発句集』(ほうぎょうほっくしゅう)は、土方歳三の俳号「豊玉」の名で詠まれた句集です。この句集は1863年(文久3年)の上洛前に纏められたもので、「しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道」や「梅の花一輪咲てもうめはうめ」といった句が収録されています。専門家によって「ルールがなっていない下手な句」と評されることもありますが、歳三の個性が垣間見える貴重な資料です。
土方歳三の遺品以外にも、土方家が副業で製造していた家伝の秘薬「石田散薬(いしださんやく)」や、その行商時に使用された薬箱など、旧日野宿での暮らしぶりがわかる貴重な道具も展示されています。これらの展示品を通じて、当時の生活や風習、そして土方家の歴史に触れることができます。
土方歳三(ひじかた としぞう)は、天保6年(1835年)5月5日(1835年5月31日)に、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)で生まれました。彼は豪農の土方家に生まれ、幼少期に父・義諄と母・恵津を相次いで亡くしています。歳三の生家には、彼が「我、壮年武人と成りて、天下に名を上げん」と言って植えたという「矢竹」が今も残っています。
歳三は11歳の時に江戸の「松坂屋いとう呉服店」に奉公に出たという説もありましたが、石田村の人別帳からその時期には村に在住していたことが確認されています。奉公は14歳から24歳の間の10年間で、具体的な奉公先は明確ではありませんが、その期間に歳三は各地の剣術道場で試合を重ねて修行を積んでいました。
歳三の姉・らんは、日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅に出入りしていました。彦五郎は井上源三郎の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅に道場を開いていました。歳三も安政6年(1859年)3月9日に天然理心流に正式入門し、近藤勇との出会いを果たします。
その後、文久元年(1861年)には近藤が天然理心流4代目宗家を襲名し、歳三は紅白の野試合で活躍しました。文久3年(1863年)2月には江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の警護のため、浪士組に応募して京都へ向かい、この時に「歳三」と改称しました。
八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ、新選組が発足しました。その後、新見錦が切腹、芹沢鴨も暗殺され、近藤が局長となり、歳三は副長に就任しました。歳三は新選組の組織化に尽力し、実際の指揮命令は副長である歳三から発せられていました。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、歳三は丹虎方面を探索した後に池田屋の応援に駆けつけ、事件の成功に貢献しました。この事件を契機に新選組の名は世に広まりました。
慶応3年(1867年)6月、歳三は幕臣に取り立てられましたが、その年の10月に徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府は終焉を迎えました。翌年の慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、歳三は新政府軍に敗北しながらも戦いを続けました。
鳥羽・伏見の戦い後、歳三は新撰組を「甲陽鎮撫隊」と改名し甲斐国に向かいますが、甲州勝沼の戦いで大敗。流山での再起を図りましたが、新政府軍に包囲された近藤が投降し、歳三の助命嘆願も実らず、近藤は板橋刑場で斬首されました。
歳三はその後も戦いを続け、箱館五稜郭での防衛戦に参加しましたが、戊辰戦争の最終局面で戦死しました。彼の死は旧幕軍の士気に大きな影響を与えましたが、土方歳三の名は新選組の勇名とともに今も語り継がれています。
土方歳三資料館は、第1・第3日曜日に開館しており、開館時間は午後0時から午後4時までです。平日に関しては、事前に相談が必要となります。また、2022年10月末から長期休館が予定されているため、来館を希望する方は最新の情報を確認することをお勧めします。
入館料は大人500円、小・中学生は300円です。訪れる際には、事前に予約が必要な場合もあるため、注意が必要です。
資料館は、多摩都市モノレール線の万願寺駅から徒歩約5分の場所にあります。交通の便が良く、訪れやすい立地ですので、歴史散策の一環として立ち寄るのもおすすめです。
土方歳三資料館は、新選組副長として活躍した土方歳三に関する貴重な資料を展示する、歴史愛好家にとって欠かせないスポットです。その生家跡に立てられた資料館では、彼の生涯とその時代背景を深く学ぶことができます。今後の運営については課題もありますが、その歴史的価値は揺るぎないものであり、多くの人々に支持され続けるでしょう。