八幡神社は、東京都町田市矢部町に所在する歴史ある神社です。この神社は「箭簳八幡宮」とも呼ばれ、別名「矢幹八幡宮」や「矢部八幡宮」とも知られています。
箭簳八幡宮は、616年(推古天皇24年)に創建されたと伝えられており、日本の古い歴史の一部を担っています。この神社の創建は、第34代推古天皇が病気平癒を願って社殿を修造したことに由来するとされています。
また、小田原の北条氏の配下であった小山田氏一族の氏神としても崇敬され、その勢力の及ぶ地域の総鎮守としての役割を果たしてきました。天正4年(1567年)には、滝山城(現・八王子市にあった城)の城主である北条氏照が、悪疫の流行に際して当神社で祈祷を行い、その効果があったと伝えられています。
しかし、北条氏の滅亡や小山田氏の敗走などにより、一時期神職が不在となり、古文書の保存が十分に行われなかった時代もありました。
かつて、この神社は「木曽八幡宮」とも呼ばれていました。別当寺は吉祥山住善寺達三院でありましたが、社名の変更に関する伝承もいくつか残されています。
『武蔵風土記稿』によれば、社殿造営時に社殿屋上に矢幹を立てたため「矢幹八幡宮」と名付けられたとされています。また、『武蔵名勝図会』では、木曽義仲の滅亡を憚り「木曽八幡」から「箭柄八幡」に改称したと記されています。
康平5年(1062年)には、源義家が戦勝を祈願したとの伝承もあります。その後、天明8年(1788年)12月には、当時の代官梁田隠岐守により社殿が再建されました。しかし、その後再々の火災に見舞われましたが、現存する本殿および随身門は享保5年(1720年)に建造されたものです。
この再建時の棟札には「小山田庄惣鎮守」と記され、木曽・根岸両村名主以下、上小山田村・森野村・根岸村・図師村・山崎村・原町田村・木曽村の氏子が奉斎したことが記録されています。
箭簳八幡宮の主祭神は、応神天皇(誉田別命)であり、八幡神として崇められています。また、配祀神として神功皇后も祀られています。
この神社で特に注目されるのは、33年に一度開催される「奥宮開扉大祭」です。この祭りでは、期間中に応神天皇の御霊を移した木製彩色座像の御神体を見ることができる珍しい機会です。次回の開催は2046年が予定されています。
例祭では、箭幹八幡獅子舞、御神輿、稚児行列、そして「木曽の祭り」として知られる行事が行われます。特に、矢幹八幡獅子舞は町田市指定の無形民俗文化財に指定されており、古くからの伝統を今に伝えています。
大鳥居から参道を進むと木造の「両部鳥居」が現れます。「両部」とは、神仏混淆の名残である「両部神道」を指しており、この鳥居には仏教の象徴である「卍」が刻まれています。なお、この鳥居は平成30年の台風24号により倒壊しました。
両部鳥居を潜ると左手には「神楽殿」があります。この広庭では、町田市指定無形民俗文化財の「矢部町獅子舞」が奉納されます。この獅子舞は元亀・天正年間(1570年代頃)から絶えることなく継承されてきたもので、古くからの伝統を守り続けています。
両部鳥居の右手には「鐘楼」があります。この鐘楼は、江戸時代の代官、高木伊勢守守富が「釣り鐘」を献納したものです。しかし、昭和16年(1941年)には太平洋戦争のために釣り鐘が供出され、現在の鐘は昭和28年(1953年)に氏子崇敬者の寄付により再度献納されたものです。鐘楼の存在は、神仏混淆の名残を示しています。
鐘楼横の倉庫には、氏子木曽町の「大神輿」が格納されています。秋に行われる木曽町の祭りは、この神社の出張祭であり、白鳥を模した白衣を身につけた担ぎ手がお囃子と共に町内を練り歩きます。なお、この「大神輿」は大正初期に作られたもので、毎月第1・第2の日曜日には保存会の方が扉を開けて見物できるようになっています。
この神社の「随身門」は、町田市の有形文化財に指定されています。江戸時代中期に建築されたこの門は、入母屋造りで銅板葺き、正面には唐破風が付いています。三斗組で間斗束を配し、頭間下には幕股を置き、その下には虹梁が設けられた珍しい形式の門です。この門には、寺院の仁王門に倣って「随身像」が安置されています。
神社には「子育て獅子」という像もあります。この像は、元神社総代の故・鈴木喜市氏によって奉納されたもので、東京日本橋の水天宮にある「子宝犬」の像と同じ作家の手による作品です。水天宮は安産の神様として有名ですが、当神社では赤ちゃんの初宮詣の際に、獅子の親子のように仲睦まじく健やかな成長を願う親心を象徴しています。
拝殿は大正4年に建造されたもので、老朽化が懸念されています。拝殿の近くにある石碑には、箭幹八幡宮の由緒が以下のように記されています。
康平五年、源義家が奥州からの帰途、木曽にて病にかかり、夢に現れた神翁の助けで病が癒えたため、この神社を再興したという伝説があります。また、源義平と源義賢の戦いの際にもこの神社が関与したとされています。
この神社は、木曽義仲や源義家といった武士たちとの深い関係が伝えられています。これにより、箭幹八幡宮は木曽一族とその後継者たちにとって重要な存在となり、その歴史は今日まで続いています。