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八王子城

(はちおうじじょう)

八王子城は、東京都八王子市元八王子町にあった日本の城です。

概要

八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城で、関東の西に位置する軍事上の重要な拠点でした。標高445 m(比高約240 m)の深沢山(現在の城山)に築城された中世山城です。城名の由来は、華厳菩薩妙行が延喜13年(913年)に山頂で修行中、牛頭天王と8人の王子が現れたことから「八王子権現」を祀り、八王子城と名付けられたとされています。また別の説では、山王社が多摩地区に広く存在していたため、日吉大社の神体山にちなんで「八王子山」とも呼ばれていたことから名付けられたとする説もあります。

城の構造

八王子城の縄張りは北浅川と南浅川に囲まれ、東西約3 km、南北約2 - 3 kmの範囲に及びます。山の尾根や谷を利用して複数の地区に分けられ、山頂には本丸、松木曲輪や小宮曲輪などの要害地区、城山川沿いには御主殿が置かれ、アシダ曲輪で防衛されている居館地区、さらに城下町を形成する根小屋地区などで構成されていました。要害地区には複数の砦と連絡道、深い堀切や竪堀が設けられ、侵入防御が強化されていました。

城下町

城下町には武家屋敷の中宿、刀剣鍛冶職人の鍛冶屋村があり、滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった宿場があったとされています。また、搦手の防衛線を形成する浄福寺城や小田野城、初沢城などの出城も存在していました。

現存する範囲

現在の「八王子城跡」は八王子市文化財課が管理しており、16世紀当時よりも狭い範囲に限定されています。史跡に含まれていない区域には霊園や私有地があり、住宅地内にも多くの遺構が確認できます。また、御主殿の木造復元計画は予算の関係で未実現となっています。

歴史・沿革

築城と発展

八王子城は北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)から築城を開始し、1587年(天正15年)に本拠としました。近年の研究によると、元亀段階には小規模な城砦が存在していた可能性があるものの、本格的な築城は1578年(天正6年)とされています。

氏照は最初は大石氏の由井城、次に滝山城を拠点とし、甲斐国の武田信玄軍に攻められた際、滝山城の防衛の限界を感じて八王子城に本拠を移しました。また、武田氏との甲相同盟が破綻したことにより、甲斐方面からの軍事的圧力に対抗するための築城であったとも指摘されています。

八王子城合戦

1590年7月24日(天正18年6月23日)、八王子城は豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められました。当時、城主の氏照は小田原本城に駆けつけており、八王子城には城代の横地監物吉信や狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らと、領内から動員された農民と婦女子を含む約3000人が立て籠もりました。

豊臣軍は夜明けと共に城に侵攻し、激戦の末、城はその日のうちに陥落しました。城内の婦女子や守備隊は自刃し、多くの死傷者を出しました。現代でもこの戦いの影響を受けた風習が残り、先祖供養の際には「あかまんま」(赤飯)を炊く風習があります。

小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は切腹。八王子城は新領主となった徳川家康によって廃城となりました。

現代

戦後の復元と保護

1945年(昭和20年)ごろ、城山一帯は戦時中の木材伐採のため禿山となりましたが、戦後ヒノキなどが植林され現在の状況になりました。1951年(昭和26年)には国の史跡に指定され、御主殿跡付近の石垣、虎口、曳橋などが復元されています。2004年には八王子城跡トンネルが竣工し、2006年(平成18年)には日本100名城に選定されました。さらに、2020年には「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」の一部として日本遺産に認定されています。

史跡の見どころ

御主殿跡や虎口と冠木門、御主殿の滝などが見どころです。麓には2012年(平成24年)に完成した八王子城跡ガイダンス施設があり、展示解説スペースのほか、休憩やレクチャースペースも整備されています。ガイダンス施設の近くには八王子城の大きな模型が展示され、無料で見学することができます。また、管理事務所ではボランティアによるガイドサービスも提供され、山頂付近の要害部まで案内が可能です。

八王子城跡は、歴史的価値と共に訪れる人々に豊かな学びと体験を提供する史跡として、今もその姿を残しています。

Information

名称
八王子城
(はちおうじじょう)

八王子・高尾山・町田

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