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回向院

(えこういん)

回向院は、東京都墨田区両国二丁目に位置する浄土宗の寺院です。かつてその別院であった寺院が東京都荒川区南千住五丁目にも存在し、歴史的な価値を持つ両寺院が独自の役割を果たしています。

歴史と概要

回向院は、1657年(明暦3年)の明暦の大火、通称「振袖火事」で亡くなった10万8千人の焼死者を埋葬するために建立されました。この火災の犠牲者を悼むため、幕府の命によって万人塚が設けられたことが始まりです。その後、安政大地震の犠牲者や水死者、焼死者、刑死者など、無縁仏も供養する場として発展しました。

創建とその背景

回向院の創建は、1667年(寛文7年)に本所の回向院が開創されたことに始まります。これは、江戸時代の小塚原(現在の東京都荒川区南千住)や品川の鈴ヶ森などにあった処刑場で亡くなった牢死者や刑死者を供養するためでした。特にこの地には、多くの無縁仏が埋葬され、その魂を弔うために建立されたものです。

回向院の理念と供養

回向院は、宗派や生物の種を問わず、あらゆる命あるものを供養することを理念としています。これにより、境内には軍用犬や軍馬の慰霊碑、「猫塚」、「唐犬八之塚」、「オットセイ供養塔」、「犬猫供養塔」、「小鳥供養塔」など、動物に関連した供養碑やペットの墓が多数建立されています。また、邦楽器商組合による三味線の革を供養する「犬猫供養塔」も存在します。

江戸三十三所観音参りと馬頭観世音菩薩

回向院は江戸三十三所観音参りの第4番札所としても知られています。馬頭観世音菩薩は、徳川家綱の愛馬を供養するために祀られたもので、その由来も深い歴史を持っています。

水子塚と水子供養

1793年(寛政5年)に老中・松平定信の命によって建立された「水子塚」は、日本における水子供養の発祥地とされています。毎年2月の第一土曜日には水子総供養が行われ、その他の月には本堂にて定期的に水子供養が執り行われています。

吉田松陰と観臓記念碑

回向院には、安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内らの墓所が存在しています。また、杉田玄白や前野良沢が刑死者の腑分けに立ち会い、それが「ターヘル・アナトミア」の翻訳、「解体新書」の刊行に繋がったことでも知られています。この歴史的な出来事を記念して、回向院には「観臓記念碑」が建立されています。

明暦の大火と回向院の誕生

明暦の大火と万人塚

1657年(明暦3年)の「振袖火事」として知られる明暦の大火は、江戸の町を焼き尽くし、10万人以上の死者を出しました。将軍の徳川家綱の命により、会津少将保科正之が亡くなった人々を手厚く葬るよう指示し、隅田川の東岸に土地が与えられました。この地に「万人塚」という墳墓が設けられ、無縁仏の供養が行われました。

これが現在の回向院の始まりであり、「有縁・無縁を問わず、すべての生あるものに仏の慈悲を」という理念のもとに今日まで続いています。

無縁仏の供養と江戸の庶民信仰

回向院はその後、江戸市中の無縁仏を埋葬する寺院として知られるようになりました。その結果、回向院を訪れる参拝者で両国橋周辺は賑わい、商業や演芸なども栄える場所となりました。また、観世音菩薩や弁財天などが安置され、多くの人々から尊崇を集めるようになりました。

動物供養と歴史的意義

人々だけでなく動物も供養

回向院は、人間だけでなく、動物も供養することで知られています。軍用犬や軍馬の慰霊碑、猫塚や犬塚、さらにペットの供養塔などが境内に多く建てられています。このように、あらゆる生命に対する慈悲の心を持つ回向院の姿勢は、時代を超えて多くの人々に感銘を与えてきました。

江戸三十三所観音巡りの札所

回向院は、江戸三十三所観音巡りの第4番札所でもあります。特に、馬頭観世音菩薩は、徳川家綱の愛馬を供養するために建てられたものであり、現在でも多くの参拝者が訪れています。

著名人の墓と参拝者

回向院には多くの歴史的人物の墓が存在します。山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉の墓があり、これらの墓所は歴史ファンや観光客にとっても人気のスポットです。また、参拝客の利便性を図るために両国橋が架けられました。

相撲の発祥と回向院

1768年(明和5年)以降、回向院の境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となりました。このため、1909年(明治42年)に旧両国国技館が建設されるまで、回向院は相撲の中心地となり、その時代は「回向院相撲」とも呼ばれています。

力士を祀る「力塚」

1936年(昭和11年)には、大日本相撲協会が物故力士や年寄を祀る「力塚」を建立し、相撲に関する歴史的な意義を今に伝えています。

新念仏堂とその意義

新念仏堂の建設とグッドデザイン賞

2013年には、回向院に新たな念仏堂が建設され、そのデザインは2016年度グッドデザイン賞を受賞しました。この新念仏堂は、宗祖法然上人800年大遠忌慶讃事業の一環として計画され、東日本大震災後の深い祈りを込めた建築となっています。

念仏堂の建築理念

念仏堂は、「極楽浄土を垣間見る空間」として設計されており、行き交う人々が心を落ち着ける場所、雑念から解放される場所としての役割を果たしています。特に、浄土三部経の一つである『観無量寿経』を柱に据え、極楽浄土の観想を反映した建築が特徴です。

回向院の現代的役割

市川別院と震災の影響

回向院は、現在でも多くの信徒や地域社会に貢献しています。千葉県市川市や八千代市には別院があり、市川別院は関東大震災で焼失した源光寺を移転したものです。

現代社会への貢献

回向院は、歴史的な寺院としてだけでなく、現代社会においても多くの役割を果たしており、祈りと供養の場所として人々に親しまれ続けています。

南千住回向院

南千住回向院は、東京都荒川区南千住五丁目に位置し、かつては両国回向院の別院として存在しました。現在は独立し、正称は豊国山回向院といいます。

刑死者供養と小塚原刑場

南千住回向院は、1651年(慶安4年)に新設された小塚原刑場での刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に創建されました。歴史的には安政の大獄により処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など多くの著名人がここに葬られています。

観臓記念碑と解剖の歴史

1771年(明和8年)、蘭学者杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らが刑死者の解剖(腑分け)に立ち会ったことを記念する「観臓記念碑」が建立されています。この碑は1922年に設置され、解剖学の発展に大きく寄与した出来事を象徴しています。

延命寺と首切り地蔵

南千住回向院は、鉄道敷設により南北に分断され、分断された南側部分が独立して延命寺となりました。延命寺には高さ3.6mの「延命地蔵尊(通称:首切り地蔵)」があり、震災の影響で損傷を受けましたが、翌年には修復されています。

まとめ

回向院とその別院であった南千住回向院は、歴史的な背景と多くの著名人や無縁仏の供養を通じて、多くの人々に親しまれています。動物や無縁仏をはじめ、さまざまな命を慈しむこの寺院は、江戸の歴史と現代に続く文化的な遺産を象徴しています。

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