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向島百花園

(むこうじま ひゃっかえん)

向島百花園は、東京都墨田区東向島に位置する都立庭園です。この庭園は江戸時代に発祥し、歴史的な花園として知られています。梅や萩など四季折々の花々が咲き誇り、訪れる人々に癒しを提供しています。また、隅田川七福神の発祥地でもあり、福禄寿が祀られています。

歴史

多賀屋敷と梅屋敷

向島百花園の土地は、江戸時代には「多賀屋敷」と呼ばれていました。この土地は、武蔵国葛飾郡寺島村にあり、幕臣多賀氏の所領でした。多賀氏は徳川家旗本として仕え、この地を私有地として持っていました。その後、梅を植えた「梅屋敷」として知られるようになりました。

佐原鞠塢と百花園の創設

向島百花園は、佐原鞠塢(さはらきくう)という江戸時代の文化人によって創設されました。鞠塢は仙台出身の商人であり、天明年間に江戸に移り住み、骨董店を営んでいました。寺島村の多賀氏の旧屋敷跡を購入し、造園を行いました。1804年(文化元年)頃に開園したとされ、園内には梅をはじめとする多くの花木が植えられました。開園当初は「新梅屋敷」「花屋敷」などと呼ばれていましたが、その後、「百花園」として知られるようになりました。

向島百花園の名付けと文人墨客のサロン

向島百花園は、文人墨客のサロンとしても利用されていました。「梅は百花にさきがけて咲く」と言った絵師・酒井抱一が「百花園」と命名し、その名が広まりました。また、徳川11代将軍家斉や12代将軍家慶も訪れたことがある名所です。園内には池泉、園路、石碑などが配置され、美しい景観を楽しむことができました。

福禄寿尊堂と虫はなち会

1831年(天保2年)、初代園主・佐原鞠塢が没し、鞠塢を追悼するために虫の放生会「虫はなち会」が行われました。これが現在の「虫ききの会」の原型とされています。明治中頃から百花園の行事として定着しました。

百花園の発展と文人たちの寄与

百花園の開園には、多くの文人や町民の協力がありました。加藤千蔭、村田春海、太田南畝、亀田鵬斎、大窪詩仏、酒井抱一、谷文晃などが参加し、園内には360種以上の梅の木が植えられました。

近代化と復興の歴史

明治・大正時代の変遷

明治時代以降、百花園は民営の公園として存続しましたが、洪水や近代化の影響で一時荒廃しました。昭和8年(1933年)には国の「名勝」に指定され、昭和9年(1934年)に百花園は東京市に寄贈され、1939年に公営の公園として再出発しました。しかし、1945年の東京大空襲で全焼し、一時はその存続が危ぶまれました。

戦後の復興と再開

戦後、地元の人々の努力により百花園は徐々に復興しました。1949年には園内の一部が再開され、「萩のトンネル」が寄贈されるなど、再び花の名所として復活を遂げました。この復興活動の一環で、東京都から宮内庁への七草籠の献上も再開されました。

名勝・文化財としての保護

向島百花園は1924年に「史跡名勝」に指定され、1933年には国の「名勝」にも指定されました。しかし、戦後の再建により一時その指定が解除されました。その後、1978年に再び「国の史跡および名勝」に指定され、現在も保護されています。園内の景観は今も当時の趣きを残しており、貴重な歴史的文化財として評価されています。

向島百花園の年中行事

向島百花園では、一年を通じてさまざまな行事が行われます。以下はその主な行事です。

園内の見どころ

梅と萩の四季折々の美しさ

向島百花園は、一年を通じて様々な花が咲き誇る庭園です。特に梅と萩は見どころで、早春には梅が、秋には萩が美しく咲き、訪れる人々を楽しませます。江戸時代から続くこの庭園は、歴史と自然の調和を感じることができる貴重な場所です。

向島百花園では、四季折々の花が楽しめます。以下は月ごとの主な花のリストです。

文人の石碑

園内には、多くの文人の石碑が残されています。亀田鵬斎の「墨沱梅荘記」などの石碑があり、江戸時代の文化人たちの足跡を感じることができます。

向島百花園は、江戸時代から続く伝統的な庭園であり、四季折々の花々と歴史的な遺構が魅力の場所です。東京都内に残る数少ない文人庭園の一つとして、今も多くの人々に愛されています。

交通案内

鉄道アクセス

バスアクセス

向島百花園は、四季折々の花々と歴史的な背景を持つ東京都の文化財です。さまざまな行事や催し物が行われ、江戸の情緒を感じることができる魅力的な場所です。

Information

名称
向島百花園
(むこうじま ひゃっかえん)

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