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両国国技館

(りょうごく こくぎかん)

両国国技館は、東京都墨田区横網一丁目に位置する大相撲の興行施設で、公益財団法人日本相撲協会が所有しています。この施設は大相撲の本拠地としてだけでなく、プロレスやボクシングなどの格闘技の興行会場、音楽ライブ、クラシック音楽のコンサートなど多用途に利用されています。

概要

「両国国技館」という名称は、日本相撲協会が一般向けに使用する通称で、正式には「国技館」と呼ばれます。相撲の番付表では、旧字体で「國技館」と表記されることもあります。現在の両国国技館は、1985年に建設されたもので、約11,000人の観客を収容可能な日本国内最大の相撲専用施設です。

旧国技館の歴史

初代国技館の建設

1909年(明治42年)、旧国技館は回向院の境内に建設されました。これは、安定した相撲興行を行うための常設館の建設が明治時代から求められていたことによります。日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築で、法隆寺金堂を模した屋根が特徴です。収容人数は約13,000人で、大きな鉄製の屋根が「大鉄傘」と呼ばれました。

命名とその由来

当初、常設館の名称は「尚武舘」(しょうぶかん)が有力でしたが、作家・江見水蔭が起草した披露文にある「角力は日本の國技なり」という一文から、委員の一人が「國技舘」を提案し、最終的に「国技館」と命名されました。開館式でこの名称が正式に発表され、相撲はここにおいて国技としての地位を確立しました。

二度の再建

火災と再建

1917年、国技館は火災で全焼し、仮設会場での興行を余儀なくされました。翌年、新たに再建された国技館は、亜鉛製の屋根を持ち、大正9年(1920年)に完成しました。しかし、1923年の関東大震災で再び被災し、再建を経て翌年の夏場所から興行が再開されました。

第二次世界大戦中の利用

第二次世界大戦中、国技館は大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用されました。このため、相撲の本場所は後楽園球場や神宮外苑相撲場などで開催されました。戦争終結後の1945年には、アメリカ軍による空襲で三度目の焼失を経験しました。

両国メモリアルホール

終戦後の1945年、国技館は連合国軍に接収され、「メモリアルホール」として改装されました。1946年には接収解除されるまでの間、大相撲の興行は限定的にしか許可されず、旧国技館での最後の興行は1946年11月場所と、第35代横綱双葉山の引退披露となりました。

現在の両国国技館

再建と現在の姿

現在の両国国技館は、1985年に竣工しました。この新しい国技館は、旧国技館から数百メートル離れた場所にあり、現代的な施設としての機能を備えています。相撲の興行のみならず、スポーツイベントや音楽コンサートなど多彩なイベントが開催され、東京の文化施設としても重要な役割を果たしています。

施設の特徴

新国技館の内部は最新の音響設備や空調設備を備え、約11,000人の観客を収容できます。伝統的な相撲の雰囲気を保ちながらも、現代的な利便性を兼ね備えた設計が施されています。館内には相撲博物館も併設されており、訪れる観光客に相撲の歴史や文化を紹介しています。

その他の利用

両国国技館は、相撲以外にもさまざまなイベントに使用されています。プロレスやボクシングなどの格闘技、音楽ライブ、クラシックコンサートなど、幅広いジャンルのイベントが行われ、年間を通して多くの人々が訪れます。また、周辺地域も観光地として発展しており、相撲観戦と併せて楽しめるスポットが数多くあります。

まとめ

両国国技館は、相撲という伝統文化を継承しつつ、時代の変化に合わせて多様な利用を受け入れてきました。その歴史は、日本の相撲の発展とともにあり、今後も日本文化の一翼を担う重要な施設として、その役割を果たし続けるでしょう。

Information

名称
両国国技館
(りょうごく こくぎかん)

浅草・スカイツリー

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