旧渋沢家飛鳥山邸は、東京都北区西ヶ原の飛鳥山公園内に位置する渋沢栄一の邸宅で、かつて別荘として使用され、後に本邸となりました。この邸宅は「曖依村荘(あいいそそんそう)」と名付けられ、その庭園である「旧渋沢庭園」として整備されています。また、敷地内には大正期に建築された「晩香廬(ばんこうろ)」と「青淵文庫(せいえんぶんこ)」があり、これらの建物は国の重要文化財に指定されています。
渋沢栄一は、王子製紙の工場を訪問した際に、王子権現付近を散策してその眺望を気に入りました。これがきっかけで、1877年(明治10年)から西ヶ原の土地を購入し、1879年(明治12年)には別荘地として「曖依村荘」を定めました。その後、1898年(明治31年)5月には本邸とするための工事を開始し、1901年(明治34年)に庭園を含めた敷地面積約8,500坪の本邸が完成しました。
この邸宅には、渋沢栄一の長寿を祝うためにさまざまな建物が追加されました。1909年(明治42年)には、栄一の古稀(70歳)を祝って平壌から「愛蓮堂」が移築され、1917年(大正6年)には喜寿(77歳)を祝うために「晩香廬」が、1925年(大正14年)には傘寿(80歳)を祝って「青淵文庫」が贈られました。
渋沢栄一は1931年(昭和6年)に亡くなりましたが、彼の長男である篤二は病弱であったため、栄一の嫡孫である敬三が2代目当主として家督を継ぎました。その後、栄一の遺言に従い、敬三によって邸宅内の土地と建物が財団法人竜門社に寄贈され、1933年(昭和8年)からは一般公開が開始されました。
しかし、1945年(昭和20年)の空襲により、日本館と西洋館からなる本館などの主要な建物は焼失してしまいました。その後、時代が進むにつれて敷地の分割が進みましたが、「晩香廬」や「青淵文庫」の周辺は庭園としての姿を保ち続け、1992年(平成4年)からは北区が管理を行い、旧渋沢庭園として一般公開されています。
「晩香廬(ばんこうろ)」は、渋沢栄一の喜寿を祝って清水組(現・清水建設)から贈られた小亭(洋風茶室)です。この建物の名前は、栄一自作の詩に由来しています。建物はバンガロー風の木造平屋建てで、桟瓦葺の屋根を持ち、洗練された意匠と精緻な造形が特徴的です。この建築は、工芸品ともいえるほどの美しさを持ち、大正期を代表する建築家である田辺淳吉の作風がよく表現されています。
晩香廬は、2005年12月27日に国の重要文化財に指定されました。この建物の設計監督を担当したのは、田辺淳吉(清水組技師長)であり、その建築面積は79.24平方メートルです。アーツ・アンド・クラフツ運動の精神が具現化された、数少ない大正期の建築作品として非常に貴重です。
「青淵文庫(せいえんぶんこ)」は、渋沢栄一の傘寿(80歳)と子爵への昇格を祝って、竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)から贈られた書庫です。この建物の名前は、栄一の雅号「青淵」に由来しています。青淵文庫は煉瓦および鉄筋コンクリート造の2階建てで、1階には露台、閲覧室、記念品陳列室などがあり、2階は書庫として使用されています。
青淵文庫もまた、2005年12月27日に国の重要文化財に指定されました。設計監督は田辺淳吉が担当し、建築面積は213.67平方メートルです。この建物は、晩香廬と同様に、アーツ・アンド・クラフツ運動の精神が反映された、大正期を代表する建築作品として重要視されています。
旧渋沢家飛鳥山邸は、渋沢栄一の人生と業績を象徴する場所であり、その建築と庭園は、日本の近代史における重要な文化遺産です。この邸宅は、栄一の功績と彼を取り巻く人々の愛情と敬意を反映しており、今日では多くの人々にその歴史的価値を伝え続けています。旧渋沢庭園は、訪れる人々に渋沢栄一の精神とその時代の文化を感じさせる場所となっています。
旧渋沢家飛鳥山邸へのアクセスは、以下の通りです。東京都北区西ヶ原の飛鳥山公園内に位置し、最寄り駅はJR京浜東北線「王子駅」、または東京メトロ南北線「西ヶ原駅」から徒歩約10分です。訪れる際には、敷地内の豊かな自然と歴史的建造物をじっくりと楽しむことができるでしょう。