城官寺は、東京都北区上中里1丁目に位置する真言宗豊山派の寺院です。歴史と共に多くの信仰を集める寺として知られています。江戸時代には徳川家光に縁のある人物が再興し、現在もその格式ある姿を伝えています。正式名は平塚山(ひらつかさん)安楽院 城官寺です。
城官寺の起源は、筑紫(現在の福岡県)にある安楽寺の僧侶が諸国巡礼の途中にこの地に宿泊した際に、阿弥陀如来像を安置し「安楽院」と称したことに始まります。当初は浄土宗の寺院として運営されていました。
江戸時代に入ると、山川貞久(城官)という江戸幕府に仕えた鍼灸師が登場します。三代将軍徳川家光が病に倒れた際、山川貞久は隣接する平塚明神(現在の平塚神社)で家光の回復を祈願していました。その結果、家光は無事に回復し、山川貞久は私財を投じて平塚明神を再建しました。
さらに、寛永11年(1634年)、山川貞久は平塚神社の別当として寺院を再興し、真言宗の寺院に改めました。この再興を機に、寺の名称は「平塚山城官寺安楽院」となり、格式高い寺院としてその名を知られるようになりました。
寛永17年(1640年)、徳川家光が鷹狩りの途中で当地を訪れた際、平塚神社の壮麗な姿に感銘を受け、誰が造営したのか村長に尋ねました。村長は、家光が病に倒れた際、山川貞久が日々祈願し治癒に導いたことを伝えると、家光は深く感動し、山川貞久に対して平塚神社と城官寺に社領として50石、さらに貞久自身に知行地200石を与えました。
明治時代に入ると、神仏分離令により平塚神社と城官寺は分離されました。それ以降、城官寺は独立した寺院として現在に至っています。現在も歴史的な意義を持つ寺院として、地域の人々に親しまれています。
城官寺には、江戸幕府の奥医師として名を馳せた多紀桂山一族の墓があります。この墓は東京都指定文化財(史跡)として1936年に指定されました。また、寺院を再興した山川貞久一族の墓もあり、こちらも北区の有形文化財に指定されています。
城官寺にはいくつかの重要な施設が存在します。以下に主な施設をご紹介します。
城官寺へのアクセスは、非常に便利な場所にあります。以下に、アクセス情報をまとめました。
拝観は無料で、日中の時間帯のみ受け付けています。寺院内の雰囲気を楽しむには、ゆっくりとした時間に訪れるのがおすすめです。また、駐車施設も少数ではありますが用意されているため、車でのアクセスも可能です。
城官寺は、徳川家光の病気治癒に貢献した山川貞久によって再興され、真言宗の寺院として発展してきた歴史ある場所です。多紀桂山一族や山川貞久一族の墓をはじめ、文化財としても貴重な存在であり、地域の人々に愛され続けています。都心からのアクセスも良好で、歴史と文化を感じながら、心穏やかな時間を過ごすことができる場所です。