平塚神社は、東京都北区上中里に鎮座する神社であり、郷社としての格式を持っています。平安時代の名将である源義家、源義綱、源義光の三兄弟が祀られており、地域の人々から厚く信仰されています。また、北区立滝野川小学校の「滝小音頭」にも歌詞として登場するなど、地域文化にも深く根付いています。
平塚神社が鎮座する地は、奈良時代まで「荒墓郷」と呼ばれていました。この地名の由来とも言われる「塚」は、現在でも神社社殿の裏に存在していますが、非公開とされています。しかし、この塚は北区によって「甲冑塚古墳」として登録されており、神社の重要な歴史的遺産です。
平塚神社の起源は、平安時代に遡ります。伝承によれば、平安後期の後三年の役から帰還した源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟が、この地にある豊島氏の館(平塚城)に立ち寄り、手厚いもてなしを受けました。これに感謝した義家は、鎧一領と十一面観音像を豊島近義に贈り、その鎧が城の守護として塚に埋められたことが、「甲冑塚」の由来とされています。
豊島氏は、源氏三兄弟の徳を慕い、その逗留地に社を営んで「平塚三所大明神」と称しました。これが現在の平塚神社の起源です。豊島氏はその後、鎌倉時代から室町時代にかけて勢力を強めますが、最終的には室町時代に太田道灌により平塚城で滅亡しました。
江戸時代には、盲目であった山川城官貞久が平塚明神に出世を祈願し、江戸に出て検校の地位を得ることができました。また、将軍徳川家光の病気平癒を祈願し、その病が治癒したことから、感謝の意を表して神社の修復が行われました。この功績により、寛永17年(1640年)には家光から50石の朱印地が寄進され、以後歴代の将軍たちからも崇敬を受けることとなりました。朱印地が新たに下賜されることは当時の政策上非常に異例であり、このことからも平塚神社が特別な存在であったことが伺えます。
平塚神社の境内には、いくつかの重要な摂末社があります。その中には、豊島氏を祀る「豊島神社」、稲荷神社、石室神社が含まれます。これらの社は、神社の歴史と深く結びついており、それぞれが地域の守護神として尊ばれています。また、南側に位置する城官寺は、かつては平塚三所大明神の別当の小庵でしたが、江戸時代に山川城官貞久によって再興されました。
平塚神社へのアクセスは以下の通りです。
平塚神社は、歴史の深さと豊かな伝承に支えられ、地域の人々から篤く信仰されています。歴史的な遺産や伝説を巡りながら、訪れる価値のある神社です。鎧塚や豊島氏との関わりなど、神社にまつわる伝承や歴史を知ることで、より一層その魅力を感じることができるでしょう。