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練馬城址公園

(ねりまじょうし こうえん)

東京都練馬区春日町および向山に位置する練馬城址公園は、26.66ヘクタールの広大な敷地を持つ都立公園です。この公園は、鎌倉時代から室町時代にかけて築かれた練馬城の歴史を伝える土塁が残されており、歴史的価値が高い場所となっています。

練馬城址公園の概要

歴史的背景と都市計画

練馬城址公園の開発計画は、1957年に都市計画公園として正式に決定されました。しかし、その後の整備は具体化せず、2011年の東日本大震災をきっかけに防災公園としての整備が加速しました。西武鉄道との土地買収交渉が進められ、2020年に長年親しまれてきた「としまえん」の閉園が決定されたことを契機に、跡地の整備が段階的に進められることとなりました。

古城の塔

練馬城址公園のシンボル的存在である「古城の塔」は、かつてのとしまえんに由来し、今もなお公園内にその姿を残しています。この塔の保存と活用については、地元住民や日本建築学会関東支部などから多くの要望が寄せられており、現在もその保存が検討されています。しかし、2024年4月現在、東京都からは今後の取り扱いについて具体的な発表は行われていません。

練馬城址公園の沿革

都市計画と整備の歩み

1957年12月21日に都市計画が決定されて以来、練馬城址公園の整備は徐々に進められてきました。2011年12月には優先整備区域に指定され、2020年6月12日には東京都、練馬区、そして民間事業者との間で整備に関する覚書が締結されました。2021年5月6日には整備計画が策定され、2023年5月1日には一部が開園されました。開園した区域には「花のふれあいゾーン」や「エントランス交流ゾーン」、「川辺の散歩ゾーン」などが含まれ、計3.5ヘクタールが公開されています。

2023年の調査と今後の予定

2023年8月18日には、東京都建設局より「古城の塔」の劣化状況等の調査結果が公開されました。この報告書に基づき、今後の保存対策が検討されています。また、2024年5月5日には開園1周年を記念したイベント「Happy 1st Anniversary」が開催され、歴史ツアーなどの特別企画が予定されています。さらに、2029年度には石神井川南側(としまえんプール跡地)の開園が予定されています。

練馬城

練馬城(ねりまじょう)は、東京都練馬区向山にあった室町時代の日本の城です。その跡地には、遊園地「としまえん」が存在していましたが、2023年5月1日からは「都立練馬城址公園」として整備されています。

歴史・沿革

築城と豊島氏

練馬城の築城年代は明確ではありませんが、14世紀末頃に豊島氏が石神井城の支城として築いたものと考えられています。また、城にはかつて「矢野将監」という人物がいた時期もあり、「矢野屋敷」や「矢野山城」とも呼ばれていました。その後、「海老名左近」という人物がこの地または北側の谷に居を構えたとの伝説も残っています。

豊島氏に関連する文書である『豊島名字之書立』(『米良文書』年月日不詳)には、「ねりまひやうこ(=練馬兵庫)」や「ねりま弥次郎」といった豊島一族の名前が記載されていますが、これらの人物と練馬城との関係は不明です。練馬城の名は、豊島氏にちなむとされます。

長尾景春の乱と練馬城の役割

文明8年(1476年)に勃発した長尾景春の乱において、豊島氏は長尾景春に同調し、山内・扇谷両上杉氏と対立しました。この乱で、江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たしました。

江古田・沼袋原の戦い

翌文明9年(1477年)4月13日、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が江戸城を出発し、練馬城に矢を放ち周辺に放火しました。これに対し、練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいた兄の豊島泰経に連絡し、全軍で出撃。道灌も迎え撃ち、両者は江古田原で合戦に至りました(江古田・沼袋原の戦い)。

この戦いでは、豊島方は泰明を含む数十名が討ち死にし、生き残った泰経と兵は石神井城へ敗走しました。なお、この戦いは「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませ、少数で豊島方を挑発して平地に誘い出した」とする説が有力です。

廃城とその後

その後、練馬城の運命は定かではありませんが、城主の討ち死にと従兵の敗走により無人となり、そのまま廃城となった可能性があります。以前は、道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていましたが、現在は「練馬城」とするのが新たな通説です。

城の構造

立地と防御の特徴

練馬城は石神井川の南岸に位置する丘陵地帯を利用して築かれました。城地は石神井川に流れ込む湧水が形成した侵食谷によって東西に刻まれ、南北に伸びた舌状の台地を利用しています。台地を東西に断ち切る石神井川の急崖が城の北の守りとなり、台地続きの南側が防御の正面だったと推定されます。かつては南方の台地付け根部分に大きな空堀が存在したとも伝えられていますが、現存していないため詳細は不明です。

城の規模と構造物

1927年(昭和2年)に刊行された『東京近郊史蹟案内』によれば、内郭の規模は堀の長さから測定して東西約110メートル、南北約95メートルとされています。北東部には約75平方メートルの平坦部があり、物見櫓の跡と推定されています。以前、この地には鬼門を守る「城山稲荷」が祀られていましたが、現在は移築されています。土塁の幅は10〜15メートル、高さは約3メートルで、土塁の頂上は通路として利用されていたようです。また、南方では馬出しの跡も確認されています。

増築と遺構の消失

太田道灌との対立が高まる中で、練馬城は石神井城とともに「対の城」として大規模に増改築された可能性があります。城の遺構は近年までわずかに残されていましたが、平成元年(1989年)のプール施設「ハイドロポリス」などの建設により完全に消滅しました。

「ハイドロポリス」建設に伴う発掘調査では、最大幅約10メートル、深さ約4メートルの空堀や土塁跡が検出され、土師器皿、甕、器種不明の品、擂鉢、庭石(または盆石)、碁石と見られるもの、焼けた礫、ススの付いた礫などが出土しました。

太平洋戦争中の使用

太平洋戦争中、見通しの良い台地上にあったことから、練馬城址には練馬監視哨という軍事施設が設置されました。

遺構の現状

かつては城を囲むように土塁と空堀が築かれていたとされますが、現在、地表に遺構はほとんど残っていません。1979年(昭和54年)の道路改修に伴う緊急発掘調査により、南側の住宅地内でも空堀の一部が確認されました。現在、園内の城跡は都指定旧跡として保存されています。

豊島園 庭の湯について

「豊島園 庭の湯(としまえん にわのゆ)」は、東京都練馬区に位置する温泉入浴施設で、2003年6月28日に開業しました。この施設は、かつて料亭「池畔亭」があった敷地に建設され、日本を代表する造園家、小形研三によって設計された日本庭園を生かしながら、温泉と緑豊かな景観を楽しめるようになっています。

豊島園 庭の湯の概要

施設の特徴と歴史

豊島園 庭の湯は、としまえんの閉園後もその隣接地に位置し、歴史的な庭園とともに温泉、スパ、サウナなど多彩なリラクゼーション設備を備えています。開業以来、西武鉄道が所有し、株式会社西武園ゆうえんちが運営を委託していましたが、2023年4月1日からは西武レクリエーション株式会社が運営を引き継いでいます。

施設内の詳細

1階: 温泉とスパ

1階には、温泉を中心にエステやスパなどが配置され、日常の疲れを癒すための様々なサービスが提供されています。バーデゾーンでは、健康増進を目的とした多彩な施設が揃っており、リラックスしながら体をケアすることができます。天然温泉は地下1,445メートルから湧き出るナトリウム-塩化物強塩温泉で、露天岩風呂や信楽焼風呂など、多彩なお風呂を楽しむことができます。

2階: リラクゼーションエリア

2階には、温泉入浴後にくつろげるリラクゼーションエリアがあり、日本庭園を眺めながらリラックスできる空間が広がっています。オープンリラクゼーションエリアでは、一部の席にテレビモニターが設置されており、くつろぎながら番組を視聴することも可能です。また、最新式の高機能マッサージチェアを備えたウェルネスコーナーや、静かな音楽と天然石のマイナスイオン効果を楽しめるクローズドリラクゼーションルームも用意されています。

その他の施設

また、四季折々の和食を楽しめるお食事処「緑水亭」や、入浴後の休憩に最適な和室棟、そして健康関連商品を取り揃えたおみやげ処も完備されています。これらの施設は、温泉を楽しんだ後のひとときをさらに充実させるための多彩なサービスを提供しています。

アクセス情報

豊島園 庭の湯へのアクセスは、公共交通機関が便利で、最寄り駅から徒歩圏内に位置しています。都心からもアクセスしやすく、日帰りで訪れることができる点が魅力です。

Information

名称
練馬城址公園
(ねりまじょうし こうえん)

練馬・板橋

東京都