昭和レトロ商品博物館は、東京都青梅市に位置する博物館であり、レトロテーマパークとしても知られています。この博物館は、昭和時代の懐かしい商品や文化を後世に伝えるための貴重な施設です。
昭和レトロ商品博物館は、1999年(平成11年)10月23日に開館しました。館長を務めるのは横川秀利氏であり、名誉館長には串間努氏が就任しています。博物館の設立当初から、昭和時代の貴重な品々を保存し、それらを次の世代に伝えることを目的としています。
館内には、昭和時代の駄菓子のパッケージや、古い缶、ビンなど、さまざまな昭和時代の品々が展示されています。これらの品々は、時代の流れとともに希少価値が高まりつつあるもので、博物館ではそれらを廃棄されることなく保存し、公開することに努めています。
また、館内の展示には、小泉八雲が記した雪女伝説に言及したコーナーも設けられており、訪れる人々に昭和時代の文化と文学の魅力を伝えています。
博物館では、希少な昭和時代の品々をコレクションとして受け入れる活動を行っています。これにより、昭和時代の文化や日常生活を反映したアイテムが、後世に残されるように努めています。訪問者はこれらのコレクションを通じて、昭和時代の生活に触れることができます。
博物館の1階には、飲食店「ボンボン亭」があり、水餃子などの料理が提供されています。また、隣接する茶房では、来館者がゆっくりとくつろぎながら、昭和の雰囲気を楽しむことができます。
小泉八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年9月26日)は、アイルランド系・ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家であり、日本文化の研究者としても広く知られています。彼は1896年(明治29年)に日本国籍を取得し、「小泉八雲」という名を名乗りました。この名前は、島根県の旧国名である出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に因んでいます。
小泉八雲の出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) であり、一般的には「ラフカディオ」がファーストネームとして知られていますが、実際はミドルネームです。「パトリック」と「ハーン」はアイルランド系の名であり、「ラフカディオ」はギリシャのレフカダ島を指すミドルネームです。彼自身はキリスト教の教義に懐疑的であったため、「パトリック」という名前をあえて使用しなかったといわれています。
日本においては「ハーン」と呼ばれることが一般的でしたが、来日当初は「ヘルン」とも呼ばれていました。これは、島根県尋常中学校への赴任命令書に「Hearn」を「ヘルン」と表記したことがきっかけであり、彼自身もその呼び方を気に入っていました。
小泉八雲はその生涯を通じて、さまざまな文化や国を渡り歩きました。彼はアイルランド、フランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、日本など、多くの地を旅しながらも、どの土地においても人間は根底において同一であるという信念を持ち続けました。また、彼はシンシナティで州法を犯してまで混血黒人と結婚し、日本では小泉セツと家庭を築くなど、異文化に対する深い理解と受容の姿勢を示していました。
2016年11月、愛知学院大学の教授によって、小泉八雲がイギリスと日本の二重国籍であった可能性が高いことが示唆されました。この研究は、1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を基にしたものであり、小泉八雲の国籍に関する新たな視点を提供しています。
小泉八雲は1850年、イギリスの保護領であったレフカダ島(現ギリシャ)にて、アイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、ギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに生まれました。父はイギリス軍の軍医少佐として駐在しており、母はアラブの血を引くギリシャ人名士の娘でした。
八雲は幼少期をアイルランドのダブリンで過ごし、その後フランスやイギリスで教育を受けました。1869年には渡米し、ジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせました。彼はアメリカ合衆国での成功を収めた後、1890年に日本に渡り、以降、日本文化を欧米に紹介するための数多くの著作を執筆しました。
日本においては、松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら、英語教育の最前線で尽力しました。また、日本の古典を再話した文学作品も数多く遺しており、現在でもその作品は広く読まれています。
1904年、小泉八雲は狭心症により54歳で死去しました。彼が松江時代に居住していた住宅は、1940年に国の史跡に指定され、今日もその存在が記憶されています。