東京都千代田区大手町に位置する将門塚は、平将門の首を祀る塚として知られています。この場所は、東京都指定の旧跡に指定されており、長い歴史と伝説に包まれた場所です。
将門塚は、その名前の通り平将門の首を祀る塚であり、古くから人々に尊敬されてきました。この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれていましたが、住民は長らく将門の怨霊に悩まされていたと伝えられています。
徳治2年(1307年)、遊行二祖他阿真教が「蓮阿弥陀仏」の法名を贈り、首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立しました。また、かたわらにあった天台宗寺院の日輪寺を時宗芝崎道場に改宗させ、将門信仰を伝える役割を担ってきました。江戸時代に日輪寺は浅草に移転されましたが、今なお神田明神とともに首塚を護持しています。
この地域は、江戸時代には姫路藩雅楽頭酒井家の上屋敷の敷地となり、後に仙台藩原田宗輔による刃傷沙汰(伊達騒動)が発生した場所でもあります。また、関東大震災後には大蔵省仮庁舎が建てられる際に首塚の大規模な発掘調査が行われ、昭和2年(1927年)には将門鎮魂碑が建立されました。
将門塚の周辺は、地元のボランティア団体によって清掃・整備が行われており、その資金は「平将門」名義で管理されています。2016年から2020年にかけて隣接地で再開発事業が行われ、それに伴い2020年には第6次目の改修工事が実施されました。この工事は、将門塚を新しい時代にふさわしいものにすることを目的として行われました。
2021年の第6次改修整備以降、一般参詣者が将門塚に供物や物品を寄進することはできなくなり、お線香台の利用も禁止されています。供物の奉納を希望する場合は、神田神社社務所にて受付が行われています。一方で、お賽銭は以前と同様に将門塚敷地内の賽銭箱にて受け付けています。
過去には、将門塚には多数の蛙の置物が奉納されていました。これは、将門の首が京都から飛んで帰ったという伝承にちなみ、「帰る(カエル)」にかけて左遷された会社員や行方不明になった子供が無事に戻るようにと願って供えられたものでした。
将門塚は、古くから江戸の地における霊地として畏怖され、尊敬されてきました。この地に対して不敬な行為を行うと祟りがあると伝えられています。
1923年の関東大震災後、大蔵省が仮庁舎を建設しようとした際には、工事関係者や省職員が相次いで不審死する事件が起こり、将門の祟りとして噂されました。これにより仮庁舎は取り壊され、1928年には大蔵省が鎮魂祭を行っています。
第二次世界大戦後には、GHQがこの地を撤去しようとした際にも不審な事故が相次ぎ、計画は中止されました。これらの出来事により、将門塚は取り壊しや移転を免れ、現在も高層ビル街の中に残り続けています。
将門塚は、東京メトロおよび都営地下鉄大手町駅C6a出入口からすぐの場所にあります。アクセスも非常に便利で、毎日多くの人々が訪れています。