穴守稲荷神社は、東京都大田区羽田にある稲荷神社です。祭神は豊受姫命で、東京を代表する稲荷神社の一つとして広く知られています。特に羽田空港内に鎮座していた歴史や、大正時代から続く飛行安全の信仰、空港鎮護の神社としても有名です。神社の立地は空港に非常に近いため、航空安全や旅行安全の祈願で訪れる人も多いです。
「穴守稲荷神社」という名前は、「波浪が穿った穴の害から田畑を守る稲荷大神」という意味に由来しています。単に「穴守稲荷」や「羽田稲荷」と呼ばれることもあります。戦前には「穴守神社」と呼ばれたこともあり、経営者木村荘平の影響から「いろは稲荷」とも称されたことがあります。
主祭神は「豊受姫命」で、「穴守大神」「あなもりさん」とも称されます。公式には記されていませんが、他にも倉視命や保食神などの4柱が祀られているとする資料もあります。
祭神が豊受姫命であることから、五穀豊穣や商売繁昌、災難除けなど、広範なご利益があるとされています。特に羽田空港に近いことから、航空安全や旅行安全の信仰が強いです。
歴史的には、伯爵東久世通禧による和歌「ねがひごと かならずかなふ 穴守の いなりの神よ いかに尊き」が詠まれたことや、羽田節での「羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる」との一節でも知られています。地元だけでなく、日本全国から多くの参拝者が訪れ、外国人や空港関係者も多く参拝しています。
「穴守」という名前から、「穴を守る」という連想で性病除けの信仰が広まりました。また、競馬や競輪、宝くじなど、勝負事を願う人々からも信仰を集めています。競走馬イナリワンの名前の由来となったこともあり、近年はゲームアプリ『ウマ娘 プリティーダービー』のファンの聖地ともなっています。
穴守稲荷神社の鎮座地である羽田地区は、源義朝が平治の乱で敗れた後に源氏の落武者が開村したという伝承があります。
武蔵国荏原郡羽田村東方に位置する羽田浦と呼ばれる低湿地帯を、羽田猟師町の名主である鈴木弥五右衛門が譲り受け、新田の開発を開始しました。この地は後に扇ヶ浦や要島と呼ばれるようになり、弥五右衛門は堤防に小さな祠を建て、毎年の五穀豊穣と海上安全を祈願して稲荷大神を祀ることにしました。
暴風雨による荒波が堤防を襲い、堤防に穴が開く事態が発生しましたが、稲荷大神の加護により水没を免れました。この出来事以降、土地は栄え、稲荷大神は「穴守稲荷大神」として尊称されるようになりました。
9月15日、いわゆる将門台風によって社殿が全壊しました。これを機に、社殿を復旧し、地元の古老たちは神社の資格を得るための活動を開始しました。同年11月18日、嘆願書「稲荷神社公稱に付再願」を東京府に提出しました。
12月26日、社殿完成後の検査条件付きで公衆参拝の独立した一社として許可を得ました。この時、八雲神社の社掌である橋爪英麿が兼務社掌に就任しました。
「いろは」の経営者木村荘平が近所の火消しの元親分らの薦めを受け、一族郎党40名余を引き連れて参拝したことがきっかけとなり、穴守稲荷神社は急速に成長を遂げました。その後、木村やその他の信者たちは「イロハ講」を設立し、講の名を刻んだ真っ赤な鳥居を神社の入り口に奉納しました。
3月、東京府知事に「穴守稲荷神社落成検査願」および「神社落成ニ付遷座式願」を提出し、翌月認可を得ました。
5月1日、町村制の施行に伴い、鈴木新田も麹谷村・萩中村・羽田猟師町・羽田村と合併し、東京府荏原郡羽田村が発足しました。
鈴木新田の一部を所有していた和泉茂八が井戸を掘ったところ、海水よりも濃い塩水が湧き出しました。この塩水の成分鑑定を内務省東京衛生試験所に依頼し、その結果を待ちました。
7月、神社に「御神水講設立趣意」の届出が提出され、9月4日には塩水の実地検査が行われました。9月23日には、この塩水が湿疹や貧血、胃腸カタルなどの病気に効くナトリウム冷鉱泉(塩化物泉)と認定され、急速に社前町が発展しました。
1月、要館などの社前店や京浜諸講社の出資により、社殿の裏手に高さ33尺(約11メートル)の稲荷山(御山)が完成しました。
10月、横浜にあった劇場羽衣座で歌舞伎『穴守稲荷霊験実記』が上映されました。
現在の大鳥居駅付近から穴守稲荷神社前まで「穴守道」や「稲荷道」と通称される新道が開かれ、2月には浅草の小芝居劇場宮戸座で『穴守稲荷霊験記』が上演されました。
境内東南の隣接地4900坪を買収し、新たに神苑を開設しました。また、中央新聞社が主催した「畿内以東十六名勝」のコンクールで「府下羽田穴守境内」が最高点を獲得しました。
6月28日、日本初の「神社の参詣者輸送の為の電気鉄道」として、京浜電鉄穴守線が蒲田駅(現在の京急蒲田駅)から穴守駅(現在の穴守稲荷駅)間で開業しました。
5月28日、御神宝として五辻子爵家伝来の二尺三寸五分の太刀三条宗近が奉納され、御宝剣遷座式が挙行されました。
境内が700坪以上広がり、一挙に1000坪以上に拡張されました。同年10月には銅葺き総ヒノキ造りの拝殿・幣殿の造営が進められました。
金子胤徳が2代目宮司(掌)に就任しました。また、草津穴守稲荷神社が創建され、10月8日には鎮座地の羽田村が町制施行して東京府荏原郡羽田町となりました。
3月、神社裏手に当時京浜電気鉄道が所有していた6万坪の土地のうち1万坪を使用して羽田運動場が建設されました。
3月20日、台北市粟倉口街(現在の桂林路、華西街、環河南街一帯)にあった豊川稲荷分院内に祀られていた穴守稲荷の分社が西門市場へ勧請されました。また、3月31日には穴守線の複線化が行われ、4月1日には西門市場に穴守稲荷神社から正式な分霊が行われました。
6月25日、台北稲荷神社が創建され、7月5日には穴守稲荷神社の分霊が遷座されました。
3月23日、羽田運動場の東側に競馬場が開設されました。この年の7月には、穴守稲荷神社の拝殿と幣殿が落成し、遷座祭が行われました。また、境内の参道には新たな鳥居が建立され、参拝者の数が増加しました。
9月1日に発生した関東大震災の際、穴守稲荷神社の社殿や周辺地域は大きな被害を受けましたが、神社自体は無事に保たれました。この出来事により、さらに信仰が厚くなり、多くの人々が災害からの保護を祈願するために参拝しました。
穴守稲荷神社は周辺の土地開発により、さらなる発展を遂げました。この頃には、神社の周辺には商店や宿泊施設が立ち並び、羽田空港の発展とともに地域の経済が活性化していきました。
第二次世界大戦中、神社は空襲の被害を受けました。戦後、神社の再建が進められ、再び多くの参拝者が訪れるようになりました。この時期、航空安全の守護神としての信仰が高まり、航空業界関係者や旅行者からの信仰を集めるようになりました。
羽田空港の拡張工事に伴い、穴守稲荷神社は現在の大田区羽田に移転されました。旧社地には鳥居だけが残され、新たな神社が現在の場所に建立されました。この新しい場所でも神社は繁栄し、空港利用者や地元住民に親しまれ続けています。
羽田空港の国際化が進み、海外からの参拝者も増加しました。穴守稲荷神社は、日本国内だけでなく、海外からも航空安全や旅行安全を祈願するために訪れる人々が多くなりました。
この年、穴守稲荷神社の創建100周年を迎え、記念行事が盛大に行われました。地域社会や航空業界との結びつきがさらに強化され、神社の重要性が再認識されました。
新型コロナウイルス感染症の影響により、穴守稲荷神社も一時的に参拝者数が減少しましたが、感染対策を講じつつ、オンライン参拝など新しい形での信仰のあり方が模索されました。これにより、現代のニーズに応じた神社の役割が再定義されつつあります。
穴守稲荷神社には、「御神砂(おすなさま)」として知られる砂にまつわる伝説があります。この砂は、古来より招福や商売繁盛をもたらすとして信仰されており、多くの参拝者がその御利益を求めて訪れます。
かつて、要島の穴守に老夫婦が住んでいました。老夫は日々の糧を得るために漁に出かけていましたが、ある日、不漁が続き、老夫婦の生活は厳しいものとなりました。そんな中、ある日突然、老夫が漁から帰ると、魚籠には魚一匹の姿もなく、代わりに湿った砂が入っていました。これが数日続き、老夫は不思議に思い、村人たちに相談しました。
村人たちは、これは穴守稲荷に住む狐の仕業だと考え、狐を捕まえて殺そうとしましたが、老夫婦はその狐を許し、放してやるよう村人たちに懇願しました。すると、その後、老夫の漁は大漁続きとなり、魚籠には魚があふれるようになりました。しかし、魚籠にはなぜか常に湿った砂が残っていたのです。
この砂がもたらす御利益を知った村人たちは、穴守稲荷神社へ参拝し、砂を持ち帰って自分たちの生活に取り入れるようになりました。その結果、大漁や商売繁盛が続き、多くの人々がこの砂を求めて参拝するようになったのです。
穴守稲荷神社の境内には「神穴(かみあな)」と呼ばれる神聖な場所があります。ここには、小さな祠が建てられ、屋根で覆われています。昔から、多くの信徒がこの神穴を訪れ、砂を持ち帰っては商売繁盛や幸福を祈願しました。特に、料理店や芸妓などの職業に従事する人々にとって、この砂は繁栄の象徴とされていました。
また、神穴の砂を持ち帰り、自分の店や家に撒くと、商売が繁盛すると信じられていました。この信仰は明治時代には東京だけでなく、遠方の府県にまで広がり、参拝者が後を絶たないほどになりました。
現在でも、穴守稲荷神社の「御神砂」は、多くの参拝者に求められています。この砂を持ち帰り、屋敷内や玄関に撒く、あるいは身につけると、御神徳が授かり、諸願が叶うとされています。また、特別なお守りとして、御神砂が中に入ったものも頒布されています。
御神砂は、以下のように撒くと良いとされています。
穴守稲荷神社の御神砂にまつわる物語は、代々語り継がれてきました。昔、羽田の要島に住んでいた翁が、釣りをしていたところ、不思議なことに魚ではなく湿った砂だけが釣れるということが続きました。これを狐の仕業だと疑った村人たちは狐を捕まえましたが、翁は狐を許し、その後、大漁が続くようになりました。この砂が招福をもたらすことが広まり、多くの人々がこの砂を求めて穴守稲荷神社を訪れるようになったのです。
穴守稲荷神社には、多くの和歌が奉納されています。これらの和歌は、神社やこの地にゆかりのあるものであり、神社への感謝や信仰を表現しています。
奉納された和歌の一つには、次のようなものがあります。
真心(まごころ)を うつせば照す かがみには 神の御霊(みたま)の ありとこを見れ(百六歳 岡村鶴翁)
この和歌は、真心を持って神に向き合えば、神の御霊がそこに宿り、真実を映し出す鏡のように、私たちの心にも神の光が差し込むという意味を持っています。
穴守稲荷神社の信仰は、現在でも多くの人々によって受け継がれています。特に航空安全や旅行安全を祈願する参拝者が多く、毎年多くの人々が訪れます。また、御神砂を求めて訪れる人々も絶えません。
このように、穴守稲荷神社は、東京の歴史と共に歩んできた神社であり、現代においてもその信仰は深く根付いています。神社を訪れる際には、ぜひこの御神砂の言い伝えにも触れてみてください。
穴守稲荷神社へは、京急空港線「穴守稲荷駅」から徒歩約5分でアクセス可能です。また、羽田空港からも近く、空港を利用する際の参拝が容易です。都内からのアクセスも良好で、観光や航空安全祈願のために多くの参拝者が訪れます。
穴守稲荷神社では、年間を通じてさまざまな祭りや行事が行われます。特に正月の初詣や、5月の例大祭が盛大に行われ、多くの参拝者で賑わいます。また、航空業界関係者による航空安全祈願祭も定期的に行われ、航空安全を願う人々にとって重要な行事となっています。
穴守稲荷神社には、多くの見どころがあります。鳥居をはじめとする社殿や、境内にある稲荷山(御山)は、神社の歴史と信仰を象徴する重要な場所です。また、境内には航空安全祈願の絵馬やお守りが多数奉納されており、神社の独特な雰囲気を感じることができます。さらに、神社の近くには羽田空港があり、飛行機の離着陸を間近で見ることができるスポットもあります。
穴守稲荷神社は、古くからの歴史と信仰を受け継ぎながら、現代においても多くの人々に愛され続けています。特に羽田空港との関わりから、航空業界や旅行者にとっての守護神として重要な役割を果たしています。