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鈴ヶ森刑場

(すずがもり けいじょう)

鈴ヶ森刑場は、かつて東京都品川区南大井に存在した刑場です。この刑場は、江戸時代における江戸の南の入口、すなわち東海道沿いに設置されていました。江戸の北の入口(日光街道)に設置された小塚原刑場とともに、江戸の重要な刑場の一つとして知られていました。

刑場の由来と歴史的背景

鈴ヶ森という地名は、もともとは海岸線近くに位置する一本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていました。しかし、近隣にある鈴ヶ森八幡(現・磐井神社)の社に、振ると音がする「鈴石」と呼ばれる酸化鉄の一種があったことから、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったと伝えられています。また、異説として、慶長5年(1600年)に関ヶ原へ向かう徳川家康に庄司甚右衛門が目通りした際、磐井神社近辺で陰間茶屋を設け、徳川軍一行をもてなした際に暖簾の端に鈴を結びつけ、出入りの際に鳴るようにしたことから、この地名が付いたとも言われています。

鈴ヶ森刑場の設立と役割

鈴ヶ森刑場は、芝高輪刑場と芝口札ノ辻刑場が手狭になったことから、1651年(慶安4年)に設立されました。江戸時代には、この刑場で10万人から20万人もの罪人が処刑されたとされていますが、正確な記録は残されていません。当時、この場所は東京湾沿いに位置しており、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたと伝えられています。

設置の背景と目的

鈴ヶ森刑場は、江戸の東海道沿いという重要な場所に設置されましたが、その背景には、浪人の増加に伴う犯罪の急増がありました。この刑場は、江戸に入る人々、特に浪人たちに対する警告としての意味を持っていたと考えられています。

有名な処刑者とそのエピソード

鈴ヶ森刑場で最初に処刑されたとされるのは、江戸時代の反乱事件「慶安の変」の首謀者の一人、丸橋忠弥です。この反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われました。彼はその場で殺されましたが、改めて磔刑に処されました。さらに、平井権八や天一坊、八百屋お七といった人物もこの刑場で処刑されています。

現在の鈴ヶ森刑場跡

現在、鈴ヶ森刑場跡は、東海道を継承している第一京浜(国道15号)沿いに位置し、隣接する大経寺の境内となっています。当時の広さは失われていますが、井戸や火炙り用の鉄柱、磔用の木柱の礎石などが残されており、これらは刑場の歴史を伝える重要な遺物です。これらの礎石は、かつての場所から移動されており、現在は供花台も設置されて、供養碑としての役割を果たしています。1954年には、鈴ヶ森刑場跡は東京都指定文化財に指定されました。

丸橋忠弥について

丸橋忠弥(まるばし ちゅうや、生年不詳 - 慶安4年8月10日(1651年9月24日))は、江戸時代前期の浪人であり、慶安の変において江戸幕府の転覆を図った首謀者の一人です。本名は丸橋忠也、号は一玄居士と言います。彼の出自については、長宗我部盛親の庶子として生まれたとする説や、上野国出身、出羽国山形出身など複数の説がありますが、定かではありません。河竹黙阿弥の実録歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、長宗我部盛澄説を採用しています。

慶安の変と最期

丸橋忠弥は、友人の紹介で江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開きました。その後、由井正雪と出会い、彼の片腕として幕府転覆計画に加担しましたが、奥村八左衛門の密告により計画が露見しました。捕縛の際、忠弥は槍の使い手であったため、幕府は一計を案じて捕縛を試みました。彼は母や兄らとともに鈴ヶ森刑場で磔に処され、その生涯を閉じました。辞世の歌は「雲水のゆくへも西のそらなれや 願ふかひある道しるべせよ」と伝えられています。

忠弥の遺産と伝説

丸橋忠弥の墓所は、東京都豊島区高田の金乗院と品川区の妙蓮寺にあり、その存在は現在も伝えられています。また、一説には、新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進が、忠弥の血筋であるとも言われています。

鈴ヶ森刑場へのアクセス

Information

名称
鈴ヶ森刑場
(すずがもり けいじょう)

品川・蒲田

東京都