馬込文士村は、大正後期から昭和初期(1920年代 - 1930年代)にかけて、東京府荏原郡馬込村を中心に多くの文士が暮らしていた地域を指す呼称です。現在の東京都大田区の山王、馬込(北馬込・南馬込)、中央の一帯がこれに該当します。関東大震災後、この地域に移り住む文化人が増加し、その数は100人にも達しました。
現在も馬込文士村の歴史はこの地域の誇りとなっており、地域社会の文化的遺産として受け継がれています。都営地下鉄浅草線の西馬込駅前にある商店街は「馬込文士村商店会」という名称を持ち、毎年4月には「馬込文士村大桜まつり」が開催されています。また、馬込文士村に関する資料を展示・所蔵している大田区立の施設もいくつか存在します。
この博物館には、馬込文士村に関する常設展示コーナーがあり、文士たちの生活や作品に触れることができます。
この記念館は、馬込文士村の中心人物であった尾崎士郎の旧宅を改修したものです。館内では、自筆原稿などが展示されています。
この場所は、馬込文士村の原型ともいえる「大森丘の会」のメンバーであった伊東深水の旧居跡に作られた区立の梅園です。
ここでは、日本画家の川端龍子の作品が展示されています。
徳富蘇峰の旧居跡を記念館として改修し、公開されています。館内には蘇峰に関する書籍が展示されており、隣接して蘇峰公園もあります。
女流かな書家である熊谷恒子の旧居跡に設立されたこの記念館では、彼女の作品が公開されています。
この会館には、馬込文士村に関する展示が行われています。
区立図書館の一角には、馬込文士村コーナーが設けられており、文士たちの作品や資料にアクセスすることができます。
馬込文士村の舞台となる馬込村(現在の北馬込、南馬込などの馬込地区一帯)および入新井村(現在の山王、中央付近)は、江戸時代まで農村地帯として知られていました。これに最初の変化をもたらしたのは、1876年に開業した東海道線(京浜東北線)大森駅です。この駅の開業により、現在の山王一帯は東京近郊の別荘地として開発され、文化人の往来も見られるようになりました。当時の大森には射的場や東京湾岸の海水浴場があり、外国人技術者が住むモダンな街でもありました。
明治時代の終わり頃になると、芸術家や詩人たちが山王一帯に住むようになり、馬込文士村の原型が形作られました。主なメンバーには、日夏耿之介、小林古径、川端龍子、伊東深水、片山広子、真野紀太郎、長谷川潔らがいました。彼らは大正時代に「大森丘の会」と称する会合を頻繁に開き、各芸術家たちの連帯感を強め、彼らの作品に影響を与えました。この会合は「望翠楼ホテル」で行われており、堀口大学が残した文章により、このホテルは横浜市から神奈川県庁を移築した建物であることが判明しています。
1923年(大正12年)には、後に馬込文士村の中心的存在となる尾崎士郎が馬込に引っ越してきました。尾崎士郎はこの地域を気に入り、知り合いの文士たちにこの地に引っ越すよう勧めていました。その結果、川端康成をはじめとする多くの文士が尾崎の影響を受けて移住してきました。
同年に発生した関東大震災は、文士たちの移住をさらに後押しすることになりました。東京市内は壊滅的な被害を受け、多くの人々が家を失い、郊外に移り住むようになりました。これにより、東京近郊の馬込文士村周辺も農村から住宅地へと変貌していきました。さらに、この時期には目黒蒲田電鉄により現在の東急目蒲線も開通し、馬込地域の人口は大正末期から昭和初期にかけて劇的に増加しました。
こうした背景や尾崎士郎や萩原朔太郎らの勧誘もあり、多くの文士たちが大正末期から昭和初期にかけて馬込一帯に移り住みました。そして、馬込文士村が形成され、その名が知られるようになりました。特に尾崎士郎の住居は「馬込放送局」とまで呼ばれ、文士たちの交流の中心となっていました。
文士たちの交流は非常に密接で、酒や麻雀、ダンス、文学談義が盛んに行われました。この時期には、尾崎士郎をはじめ、今井達雄、川端康成、衣巻省三、榊山潤、藤浦洸、間宮茂輔、広津和郎、宇野千代、佐多稲子、吉屋信子、村岡花子、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治らが集まりました。特に宇野千代や村岡花子など、複数の女性作家が同時期にこの地域で生活し、交流したのは世界的にも珍しい事例です。
馬込文士村の文士たちは、多彩な顔ぶれであり、彼らの文学作品にも大きな影響を与えました。しかし、野村裕の『馬込文士村の作家たち』でも指摘されているように、この時代の作家たちは経済的に厳しい状況にありました。多くの若手文士が馬込に移住したのも、家賃が手頃であったことが一因とされています。この時代が馬込文士村の最盛期とされていますが、その賑わいは尾崎士郎が馬込を一時的に去った1930年(昭和5年)頃まで続きました。
1930年以降、馬込の地を離れる文士もいましたが、移住人気が落ち着いた後も当地に住み続けた文士たちの交流は続きました。現在でも多くの記念碑や文学碑が馬込一帯に残され、馬込文士村の歴史を伝えています。